それ行け、ベンモント!(その3)2008/08/01 23:50

承前
TP&HBがデビューするまでのベンモントに関して、知り得る事を書き連ねてみる気になった。

 マッドクラッチに ― パートタイムとは言え ― 加わったこの時期、ベンモントはマイクについて、こう言っている。

 かなり印象的で、かなりおっかなかった。
 Mike was pretty impressive. Mike was pretty scary. (Playback)


 何がどう「おっかなかった」のかは、よく分からない。
 マイクは「恥ずかしがりやで、バックコーラスをやらせようとしても、駄目だった」人で、単に距離があっただけの事かもしれない。

 マッドクラッチはゲインズヴィルでトップに登り詰め、メジャー・デビューを目指して踏み出そうとしていた。レコード・デビューを決意するにあたり、トムはベンモントにバンド活動に専念するように勧める。

 彼(ベンモント)が2学年を終える微妙な時期 ― 経済学の試験のために詰め込み勉強中 ― ペティが説教した。君はカレッジで、どれほど自分の音楽的才能を無駄にしているかと。(Playback)

 トムは、よく人を説得する。いや、むしろ口説き落とす。この場合も成功した。ベンモント自身は大学をやめてバンド活動に専念する事に納得していた。むしろ、嬉しかっただろう。

 マッドクラッチを売り込むためのレコーディングは、テンチ家で行われた。
 マッドクラッチは以前に借金をしてスタジオを借りた事があるが、今回はテンチ家のリビングを用いている。テープを沢山作り、LAへ売り込み旅行をする費用を工面すると、スタジオ代が残らなかったのだろうか。幸い ― もしくは、当然 ― テンチ家のリビングには、グランド・ピアノがある。
 むさいバンド・メンバーがリビングを占拠している間、テンチ夫妻はどこかへ避難していた。それには時間制限があった。午後6時には、ニュースを見るテンチ判事のために、リビングを明け渡さなければならなかったのだ(RDAD Book)。



 こうして出来上がったテープを抱え、トムがLAへ売り込み遠征をしてみると、びっくりするほど良い成果を得た。レコード契約の前約束をとりつけ、ゲインズヴィルに戻る途中、トムはベンモントのところに寄った。どうやら、ベンモントは大学に戻っていたらしい。
 ベンモントをピックアップしてゲインズヴィルに戻ると、いよいよLAへの移動準備にかかった。

 ベンモントが大学を中退し、カリフォルニアへ行くことに関して、許可を得るためにトムがテンチ判事を説得した。しかし、正確な時期はよく分からない。Playbackや、カントムでの記述順によれば、まず判事を説得して許可を得てから、テンチ家でのレコーディングを行い、LAへ売込みに行ったようになっている。
 しかし、RDADでは、成功した売込みの帰りにニュー・オーリンズの大学でベンモントをピックアップし、その後ゲインズヴィルに戻ると、トムが判事を説得しに出向くことになっている。
 物語の構成としては、後者の方が面白い。

 ぼくはベンモントのお父さんの所に乗り込んだ。大物判事さんだ。一筋縄ではいかない。(RDAD)

 お父さんのオフィスに行くのがおっかなくてね、ベンモントをカリフォルニアに連れて行かせてくれって頼むんだから。でも、お父さんは許してくれた。多分、お父さんは自分の敷いたレールから外れてしまうとしても、何がベンモントにとって必要かを、ちゃんと理解していたんだな。とにかく、お父さんは許可してくれた。
 ところが、ベンモント自身は、まだレコード会社と契約するには年齢が足りなかった。それで、お父さんがサインしてくれた。それで、ベンモントもバンドの一員になれたと言うわけ。(カントム)


 私は、この小さなエピソードが好きだ。
 ベンモントは、パパの説得を試みたのだろうか。恐らく、やってはみたものの芳しい成果を挙げられなかったのだろう。普通、こういう場合はママや、お姉ちゃん、おじさんとか、おばさんとか、昔から知っているパパの同僚とか…つまり当てになりそうな人に助けを求めるものだが。実際は、ブロンドを長く伸ばした、明らかにむさいトムにその役目がめぐって来た。
 面白い事に、トムはこの説得工作に「行くのがおっかなかった」とは言うものの、困難とは思わなかったらしい。要するに上手く説き伏せた。  TP&HBがうんと若い頃、来日した時に日本人カメラマンが、トムのことを「低い声でゆっくり話す、思慮深そうな青年」と評した。テンチ判事に対してもそうだったのだろうか。
 しかも、トムの理屈はかなり堅牢だったようだ。

ベンに数年で良いから、下さい。上手く行かなければ、いつでもカレッジには戻れます。でも、レコード契約を取って、アルバムを作るのは、いつでもと言うわけには行かないんです。(RDAD Book)

 ベンモントは1953年10月生まれなので、マッドクラッチがLAに旅立った1974年の春は、まだ20歳だった。アメリカでは成人年齢を21歳とする場合が多い。「ベンモント自身は、まだレコード会社と契約するには年齢が足りなかった」というのは、このせいだ。
 無事、テンチ判事の許可をもらい、ベンモントを含めたマッドクラッチ一行は、LAへ向かった。ベンモントの母親の車も借りての旅。しかも途中で壊す。TP&HBの栄光の裏に、テンチ家あり。
 旅を記録した映像には、トラックの座席ではしゃぐマイクとベンモントがとらえられている。おっかなかったのは、最初のうちだけか。

(つづく)

それ行け、ベンモント!(その4)2008/08/02 23:20

承前
TP&HBがデビューするまでのベンモントに関して、知り得る事を書き連ねてみる気になった。

 ワニが犬を食うゲインズヴィルから、ビジネスが人を食うハリウッドへ。RDADでも語られているとおり、マッドクラッチは、否応無くカルチャー・ショックを受けた。マイクなどは大人しいタイプなだけに、なおさらだろう。
 ベンモントも同様で、彼の場合バンドの末っ子として戸惑う事も多かったようだ。ベンモントは自分を「エイリアンのようだった」と表現している。

 (マッドクラッチの)連中はずっとロックンロール・バンドに居て、(マッドクラッチ・)ファームに住んでいたんだ。ぼくにはそういうのが分からない。ニュー・イングランドのボーディング・スクールに居たのだから。ものすごい違いだ。ぼくの父なんて、判事ときている。(RDAD Book)

 トムの目から見ても、その戸惑いは分かったようだ。

 (ベンモントは)あのころ、かなりテンパってたな。ぼくらに家のストーブを点けさせないんだ。ちゃんとした扱い方を知らないだろうからって、ガス漏れとかするのが怖かったんだ。
 あの時、ベンモントがジーンズを1本も持ったことがないってことも思い知らされた。進学校の服をずっと着ていたんだよ。ずっとブレザーを着ていた。(RDAD Book)


 やがて、トムには娘(エイドリア)が生まれ、ベンモントはジーンズを手に入れる。マッドクラッチには未来が開けていたように思えたが、やがてその終焉が訪れた。
 マッドクラッチは行き詰まり、トムは脱退を決意。マイクに行動を共にしてくれと言うと、快諾された。ベンモントは取り残されてしまった。パパまで説得してくれたのに。

 トムはこの時のことについて、「ベンモントには本当に悪い事をした」とRDADで述べているし、出来上がった映画を見た後の感想も、「ベンモントを置き去りにしてしまったなんて、信じられない」。
 ベンモント自身の感想は、「トラックにでも轢かれたみたいな気分」。その後、トムとマイクが名だたるLAのセッション・マンと仕事をしているのを見て、「永遠に仕事を失った」(PLAYBACK)と感じるのも、無理からぬ事だろう。
 危機感を持ったベンモントが、自分を売り込むために同じくゲインズヴィルから来ていたスタン・リンチと、ロン・ブレアを仲間にしてデモ作成を企てた ― このあたりから、既に歴史はTP&HBのそれとして始まっている。

 ベンモントはデモ・セッションにマイクの助力を頼み、その相棒たるトムもハープ(ハーモニカ)か、ベンモントのボーカル指導のためか、とにかく同席することになった。トムはこの「偶然」で集まった5人でのバンド結成を思い立ち、トム・ペティ&ザ・ハートブレイカーズが誕生するのだが ―

 私はこのTP&HB誕生の経緯に考えがおよぶたびに、僅かに思うことがある。ベンモントは本当に、― 純粋に ― 自分のデモ製作を目標としていたのだろうか?
 ベンモントはトムのバンド志向を知っていたはず。しかも、マイクとトムは御神酒徳利。 ―

 画策したとまでは言わないまでも、ベンモントはこの5人がそろうセッションをきっかけに、「すごく良い事」が起きる事を期待していたかもしれない。
 更に。もし画策めいたものがあったとしたら、マイクの仄かな意志が臭わないでもない。後に脱退したロンや、さきにマッドクラッチから零れ落ちてしまったランドル・マーシュが、マイクと繋がり保っていたことを思うと、これも絶無ではないと思う。これは、飽くまでも私の想像。
 かくして、ベンモントはトムがテンチ判事に言ったように、「稀有のチャンス」をモノにして本当の成功へと歩み始め、それがトム・ペティ&ザ・ハートブレイカーズの始まりだった。時に1976年。ゲインズヴィルの楽器店で、ベンモント少年とトムが出あってから、10年ほどが経っていた。さらに、30年以上経った今でも、一緒にロック・バンドをやっている。


 ベンモントはファースト・アルバム[Tom Petty & The Heartbreakers] の写真には髭を蓄えた姿で写っている。それまでずっと、ボウボウできたわけだが、その後すっきりしてしまい、21世紀にまたはやし始めるまで、そのままだった。
 そもそも美男子のベンモント。非常に可愛い顔をしているので、髭は「俺は男だぞ!」という主張のように見えるのだが、どういう心境で剃ってしまったのだろう。会社側の売り込み戦略だったのか、単に気分の問題だったのか。

 ファンをしていると、この手のことが無性に気になったりする。

(おわり)

テンチ家の人びと(その1)2008/08/03 23:45

 引き続き、ベンモント・テンチに注目している。カリフォルニアに来るまでジーンズさえ持っていなかった、お坊ちゃまだ。その家族についての情報も、意外と手軽に手に入る。

 ベンモントはベンジャミン・モンモランシー・テンチ判事の一人息子で、姉のキャサリンと、二人の妹ダービー,レイチェルが居る。

 姉キャサリンは現在、タラハシーで弁護士(attorney)をしている。テンチ判事の一人息子は変な金髪のあんちゃんにたぶらかされて連れて行かれてしまったが、この長女は父と同じ道を選んだ。

 妹ダービーは、ボストン・ベル・カント・オペラにも所属したソプラノ歌手で、Ph.D博士号を持つ大学教授でもある。ホームページを見る限り精力的に活躍しているようだ。容姿は兄に似ているが、ベンモントの方が可愛いかも知れない。
 ちなみに、ダービーはミドルネーム。結婚してフルネームはナンシー・ダービー・テンチ・リヒトである。

 もう一人の妹レイチェルは地元ゲインズヴィルに留まり、フロリダ大学内の美術館Harn Museum of Artのコーディネイターをしている。彼女にも音楽の才があるようで、フィドルを弾く。

 テンチ家を父親方で遡ることもできる。まず、我らがベンモントから、順に一代ずつリストアップしてみる。

ベンジャミン・モンモランシー・テンチIII (1953-)
(判事)ベンジャミン・モンモランシー・テンチJr.(1919-2005)
ベンジャミン・モンモランシー・テンチSr.(1873-1956)
ジョン・ウォルター・テンチ少佐(1839-1902)
ジョン・ヘンリー・テンチJr.(1807-1851)
ジョン・ヘンリー・テンチSr.(1774-1826)
ウィリアム・テンチ(1753-1811)
ウィリアム・ヘンリー・テンチ(1694-1777)

 あれよと言う間に18世紀まで来てしまった。アメリカの建国が1776年、メイフラワー号の到着が1620年であることを考え合わせると、かなり凄い。ウィリアム・ヘンリー・テンチ以前は分からないのだが、この人物はヴァージニア州で生まれ、没しているのでその前の代もアメリカで死んでいると思われる。
 最初期のヨーロッパからアメリカへの移民は、それほど数が多くないので姓名が判明しているケースがある。
 メイフラワーの翌年,1621年。プリマスに到着した移民にウィリアム・テンチという人物があり、名前からしてもこの人が最初にアメリカに来たテンチ家の人物かも知れない。(1637年にヴァージニアに入植したEdward Tenches なる人物もあるが、名前からして1621年のWilliam Tenchの方が有力か)。

 さらに、そのテンチ家がイギリスのいかなる家系だったかと遡ると、やおらノルマンディー公爵=ウィリアム一世によるノルマン・コンクェスト時代(1066)に、地主として名前が出てくる…などと言われてしまった。さすがに、ここまでくると眉唾だ。
 眉唾でも、ちゃんと紋章もある。家名の由来となった、魚(テンチ=鯉の一種)が小さく描かれている。このページでは、紋章入りの便箋やら何やらをドルで注文できるようになっている。
 イギリスは紋章制度が厳密なのだが、そのあたりのこともちゃんとクリアしているのだろうか…?

(つづく)

テンチ家の人びと(その2)2008/08/04 23:30

 アメリカに、アル・フランクリンさんというダイビングの先生が居る。彼は自らの先祖の事を詳細に調べ上げ、サイトにアップした。ここに記すのは主に、このフランクリンさんのサイト(音が出る)からの情報だ。
 実は、フランクリンさんの母方の曽祖母ジャネットが、我らがベンモント・テンチIIIの曽祖父ジョン・ウォルターテンチ少佐の妹なのだ。遠すぎて殆ど他人だが、とにかく親戚ということになる。

 フランクリンさんの調べによると、ジャネットとテンチ少佐の父親ジョン・ヘンリーテンチJr.は、南北戦争前は奴隷を400人も所有していた、かなり裕福な人物だった。今でも、一族の墓はジョージア州にThe Tench Family Cemeteryとして残っている。
 フランクリンさんは、曽祖母の実家テンチ家について調べをすすめ、2004年にとうとうテンチ判事(ベンモントのパパ)に行き着いた。彼はゲインズヴィルのテンチ家(つまりベンモントの実家)を訪問し、判事からジョン・ウォルター・テンチ少佐(つまり、フランクリンさんの曽祖母のお兄さん)の話を聞いている。

 この時の様子は、こちらのページ(音が出る)にまとめられている。これがベンモント・ファンには必見の内容(?)となっている。

 南北戦争(1860-1865)が起こったとき、学生をしていたジョン・W・テンチは21歳。大学を中退し、南軍の兵士として出征した。家が裕福だったからだろう、彼は騎兵になっている。やがてジョージア第一騎兵連隊の少佐となった。
 戦争が終わった時、26歳だったテンチ少佐は、1900年までににフロリダ州ゲインズヴィルに移住した。この時、「息子・ベンモント」と一緒に「ジョージア州からの移住者」に名を連ねている。ベンジャミンとモンモランシーをくっつけた名前は、この代に現われる。

 テンチ少佐はなぜ裕福だった家の土地を離れて、ゲインズヴィルに移り住んだのだろうか。
 戦争が終わった時、まだ若かったテンチ少佐は、素早く新しい時代の到来を実感し、自分もそれに適応すべく行動したのかもしれない。「風と共に去りぬ」に登場する、先祖伝来の土地を守る事に命を懸けるスカーレットとは、対照的に ―。
 これは、飽くまでも私の想像。

 フランクリンさんがゲインズヴィルのテンチ家を訪問したのは、2004年のクリスマス。
 リビングには、クリスマスの飾りつけのほどこされたテンチ少佐の肖像が飾られていた。その写真もフランクリンさんのサイトには載っているのだが ―。
 私は思わず、その肖像画を見て笑ってしまった。曽孫の誰かさんによく似ている。
 イギリスの探偵小説などに、「いにしえの肖像に似ているから、お前が子孫で犯人だ!」…などという話がよくあるが、私は「そんなバカな」と思っていた。その考えを改めねばならない。遺伝の法則、恐るべし。

 フランクリンさんは少佐が所有していたヴァイオリンを見せてもらっている。フランクリンさんのページの写真でベンモントの妹ダービーが掲げているのがそれだ。
 少佐は腕の良いヴァイオリン弾きで、戦場にもこれを持参した。しかし娘を8歳で失ったのを機に、演奏をやめてしまう。ベンモントのもう一人の妹レイチェル(フランクリンさんは会えなかった)が、現在このヴァイオリンを弾いている。レイチェルは、幼くして亡くなった大叔母をしのんで数年前に演奏を始めたものが、いまや「北フロリダではかなりのフィドラー」だそうだ。

 さて。ここでダービーがヴァイオリンを掲げている写真に注目。
 背後にあるピアノと、さらにその後ろに見える煉瓦作りの柱に見覚えがある。


 そう、マッドクラッチがレコーディングをした時のテンチ家リビングの写真と同じだ。すなわちフランクリンさんは、あのマッドクラッチにとって記念すべきレコーディングが行われたリビングに通されたのだ。
 そこで、再度RDADを見直す。あのレコーディングの日のテンチ家のリビングに ― 






 ジョン・W・テンチ少佐の肖像。
 マッドクラッチのむっさいアンチャンたちは、テンチ少佐の肖像の身守る中でレコーディングしていたのだ。

 フランクリンさんは、自分の遠い遠い親戚が偉大なるTP&HBのキーボード・プレイヤーであることには、あまり頓着していないように見える。私には面白いレポートだったので、それをフランクリンさんに伝えたいのだが、英語が壁になって、いまだに実現していない。
 極東に住むロック・ファンが、自分のサイトを見てトム・ペティのDVDを必死にチェックしていると知ったら、フランクリンさんはどう思うだろうか。

(おわり)

テンチ家の人びと(番外編)2008/08/08 01:00

 トム・ペティ&ザ・ハートブレイカーズのキーボーディスト,ベンモント・テンチについての記事をずっと書いている内に、彼の家族,御先祖様へと興味が向いたのだが、その調べ物の途中で意外な事実を知った。
 いささか心臓に悪い話だ。しかも、もはや音楽とはなんの関係もない話になっている。もっとも、私が音大時代のレポートも、ほぼ同じノリだった。

 ベンモントの曽祖父,ジョン・W・テンチ少佐は、ジョージ州の裕福な家の出で、若くして南北戦争に従軍したことは、既に述べた。
 テンチ少佐には、5歳年下,1844年生まれの弟が居た。名前は、ルービン・モンモランシー・テンチ。兄とともに騎兵として従軍した。かなり若かったので、戦争末期かもしれない。
 戦後、生まれ故郷に残って医者になった。少佐の息子から、我らがベンモントに至るまで三代引き継がれた「モンモランシー」という典雅なミドル・ネームは、この少佐の弟から引き継いだようだ。
 テンチ医師は1910年に66歳で亡くなった。以下に翻訳するのは、そのことを伝える新聞 The Senoia Enterpriseの、6月18日号記事である。

 我々も良く知っている、ドクター・R.M.テンチが亡くなった。ドクター・テンチは、たびたび具合を悪くしていた模様で、そのたびに痛みを和らげる薬を用いていたようだ。月曜日の夜も、その類のものを用いたと見られるが、過剰接種の疑いは持たれなかった。
 夜、彼はいつものように休んだが、火曜日の朝は朝食に降りてこなかった。彼が姿を現さずに7時になるまで、これといった気配はなかった。ハリー・リンチと、ルイス・エドワーズの両氏は、ドアを叩いてもテンチ医師が起きてこなかったため、部屋の入口を押し破り、ベッドの上でクロロフォルムの浸み込んだハンカチが顔に被った状態のテンチ医師と、脇にそのボトルを発見した。誰もが、自殺の意思はなく、ただ処置が過剰であったと信じている。
(中略)
 ドクター・テンチは、当地で生まれ育った。66歳にしては、同世代の人々と比べて健康だった。長く医師として働き、成功を収めた。ドクター・テンチほど、慈善事業に尽くした人は少ない。まさに、彼は貧しい人々の味方であり、助けを求められて、断ったことは一度もない。
 彼は勇敢な南部連合の兵士で、戦争中の挑戦的な出来事に携わった時ほど、楽しいことはなかった。彼はジョージア連隊に名を連ね、ヴァージニアでその任務に就いていた。後に、ホィール騎馬連隊に所属した。

 ドクター・テンチの兄弟は、フロリダ州ゲインズヴィルに兄のJ.W.テンチ氏(=少佐)、この土地にW.D.リンチ夫人,ニューナンにE.O.リンチ夫人、ワシントンDCにL.スミス夫人が健在だ。(訳者注:正しくは、ゲインズヴィルのテンチ少佐は既に他界している。)
 ドクター・テンチの遺体は、水曜日の朝、生まれ育った家の近くにある古くからの一族の墓地に、埋葬された。

 この記事を見付けた時は、しばし呆然としてしまった。同じような悲しい出来事を、どこかで何度も聞いたことがある。ロックという素晴しい音楽が世に出現する代償であるかのように、多くのロッカーたちがドラッグで命を落とした。これら数々の悲劇と、どこかが重なっているのだ。
 医者が自分の痛みを和らげるために、自ら処方する薬に蝕まれると言うのは、珍しくなかったのだろう。ドラマ「ドクター・クイン」にも、そういうエピソードが登場したような気がする。
 ともあれ、大好きなロック・アーチストであるベンモントに関して、少しネット・サーフィンしただけでこれだけの事が分かってしまった。「ブッデンブローク家の人びと」や、「楡家の人びと」のような、大河小説にしたら面白いだろう。前者二作品は、栄えた家が、衰えて終わるが、テンチ家の場合は最後に物凄いロック・アーチストという大花火が打ち上がる所が面白い。

 蛇足だが、ルービン・モンモランシー・テンチのように、テンチ家には何人か医者が居る。一方、テンチ少佐の息子ベンジャミン・モンモランシー・テンチSr.(ベンモントのおじいちゃん)は、判事の娘と結婚した。ベンモントの父親が判事になったのは、この影響かも知れない。
 テンチ少佐や、テンチ医師の妹二人の姓が同じなのは、姉妹がリンチ兄弟に嫁いだため。E.O.リンチ夫人が、アル・フランクリンさんの曽祖母だ。

Pandaful Tonight2008/08/10 22:21

 2008年8月30日、「パンダフルライフ」という、映画が公開されるそうだ。予告編も可愛い。こちらが公式ページ
 パンダフル。そこで、私は替え歌を作った。「パンダフル・トゥナイト」。曲は、もちろんエリック・クラプトンの、"Wonderful Tonight"。

Pandaful Tonight

It's late in the evening; she's wondering what bamboos to eat
She don't need a make-up but brushes her black and white hair
And then she asks me, " Do I look all right? "
And I say, "Yes, you look pandaful tonight."

We go to London city and everyone turns to see
This strange animal that's swaggering around with me
And somebody asks me, "Do you feel all right?"
And I say, "Yes, I feel padnaful tonight."

I feel pandaful
Because I see the wild soul in your eyes
And the wonder of it all is that you just don't realize
You look like Jeff Lynne

It's time to go the zoo and I've got bloodied so bad
'Case She scratched me violently
Zookeepers push her into the cage
And then I tell her, as I leave the zoo
I say, "My darling, you were pandaful tonight
Oh my darling, you were pandaful tonight."

 なんだか悲しい曲になってしまった。

テンチ家の兄弟(その1)2008/08/13 22:07

 私はどうやら、テンチ家にはまったらしい。

 そもそもの始りは、TP&HBのキーボーディスト,ベンモントの曽祖父である、ジョン・W・テンチ少佐だった。彼についてネット検索すると、南北戦争におけるテンチ家の、微量な情報がひっかかる。こうなると、もともと歴史好きなので、気になって仕方がなくなるのだ。
 しかし、気になったところで調べをすすめようとしても、大きな障害が生じる。それは、私が南北戦争について、無知だということだ。仕方がないので、ウィキペディアで南北戦争の項目を通読するのだが、「西部戦線」という表現を見て、カリフォルニア州あたりを瞬時に想像してしまった。絶望的。(南北戦争における「西部戦線」とは、アパラチア山脈の西からミシシッピ川の東あたりに展開された戦闘のこと。)
 南北戦争を扱う本も色々あるようだが、どれを読めば良いのか皆目見当がつかない。良書があったら、紹介してほしい。…日本語で…(根性なし)
 そもそも、ロックというアメリカの音楽を愛しているのだ。その国の歴史を知ることは重要だ。(もっとも、私がこれまでに読んだ歴史の本で、一番面白くなかったのが、「アメリカの歴史全6巻」なのだが…)

 南北戦争の詳細についてはさておき、あらためて注目すべき(私が勝手に注目しているだけ)テンチ家の人々を確認する。まず、中心になるのは、ベンモントの曽祖父とその兄弟だ。

 我らがベンモント・テンチから数えて、4代前。ジョン・ヘンリー・テンチ(1807-1851)は、サウス・カロライナ州で生まれ育ったが、結婚後の1836年ごろに、ジョージア州コウェタ郡ニューナン(Newnan)に移住。8人の子供をもうけ、そのうち7人が成人した。

ヘンリー・グレイ・テンチ(1834-1891)
エリザベス・スーザン・エミリー・テンチ(1835-1929)
ジョン・ウォルター・テンチ(少佐)(1839-1902 ?)
ジェイムズ・アンドリュー・テンチ(1842-1861)
ルービン・モンモランシー・テンチ(1844-1910)
マーサ・エルヴィラ・テンチ(1847-1930)
ジャネット・ヘンリエッタ・テンチ(1849-1936)

 末っ子のジャネット・ヘンリエッタが、例のアル・フランクリンさんの曽祖母であることは、すでに述べた。「テンチ家の人びと(番外編)」の最後に、E.O.リンチ夫人が彼女だと書いたが、即ち「エリヤ・オルバート・リンチ氏の奥さん」と言う意味だ。
 テンチ家の兄妹を書き並べただけで、色々確認するべき項目がある。続きは、また次回…

(つづく)…と、言っても連投は無理。

機雷なんか糞くらえだ!2008/08/14 23:38

 1861年4月12日サムター要塞の戦いをきっかけに、アメリカ南北戦争の火蓋が切って落とされた。
 1週間後の4月19日、アメリカ合衆国大統領(北軍側)エイブラハム・リンカーンは、海上封鎖を宣言した。南部連合の港を海軍力をもって封鎖し、南部を経済的に干上がらせてしまおうという作戦である。いかに南部の諸州が農作物を生産しても、港を使えなければ消費地へ効率的に送り出すことができないし、さらに外からの物資を ― 日常生活の必需品から、軍需用品までを ― 受け入れることも出来なくなり、戦況は北軍に著しく有利となることは明らかだった。
 もっとも、北軍も大した海軍力を持っていた訳ではない。この作戦のために、艦船や水兵、士官の数を増強した。
 一方、南軍も封鎖作戦に抗うべく、封鎖ランナーと呼ばれる足が速く、すばしっこい小型船で北軍海軍の間をくぐり抜けようとした。また、海軍が港に迫って来れば自前の小型艦船で対抗し、また機雷を多数ばらまいて撃退しようとした。

 北軍海軍は戦力的に明らかに優位だったが、いかんせん南部の海岸線は長い。封鎖には時間がかかった。
 南部最大の港,ニュー・オーリンズは1862年4月、デイヴィッド・ファラガット大佐が率いる西メキシコ湾封鎖艦隊に降服。最後に残された大規模な港は、アラバマ州モービル湾となった。
 1864年8月、少将になっていたファラガットは、艦隊を率いてモービル湾に迫った。それに対し、南軍は湾に機雷を多数設置して、迎え撃つ。
 以下は、Wikipedeia - David Farragutからの翻訳である。

 ファラガットは、艦隊に湾への突入を命令した。砲艦テクムセが機雷に触れて沈没すると、他の艦船も後退気味になった。
 その後退の様子を、ファラガットは旗艦ハートフォードのマスト上から見ていた。彼はマストのロープを叩きつけながら、「何事だ?!」と、伝声管を通じて戦艦ブルックリンに向かって怒鳴った。
 「機雷です!」と、叫び声が返ってきた。
 「機雷なんか糞くらえだ! ( Damn the torpedoes ! )」ファラガットが言った。
 「Four Bells. ドライトン船長、前進!行け、全速!」
 艦隊は湾への侵入に成功。ファラガットはモーガン砲台,ゲインズ砲台からの攻撃を打ち負かし、フランクリン・ブキャナン提督を降服せしめた。


 かくして、北軍による海上封鎖はおおむね完了した。南軍は補給面で窮し、翌年リッチモンドが陥落。4年にわたった内戦は終結した。
 ファラガットは最終的には海軍大将に昇った。彼のモービル湾攻撃での言葉は、Damn the torpedoes, full speed ahead ! (機雷なんて糞くらえだ、全速前進!)という形で、有名になった。

 私は、トム・ペティ&ザ・ハートブレイカーズが好きになってから随分経っているのにもかかわらず、このファラガットの話を全く知らなかった。どうして抜け落ちたのだろう。
 最高傑作の誉れ高き、サード・アルバム Damn the torpedoes のタイトルを、何となくしか理解しておらず、むしろ邦題の「破壊」に親しんでいた。
 実は、RDADでトムがアルバムタイトルの意味を訊かれて、「そういう言葉があるんだよ。『機雷なんてくそくらえ、前進』って。」と答えていたが(go ahead と言っている)、聞き取れていなかった。
 Rebels (反逆者,南軍兵士)という曲を作るトムが、北軍将官の名言を用いるくらいだから、北軍のモットーというより、アメリカ人なら誰でも知っている名言と認識されているのだろう。

 それにしてもファラガット少将、名言だ。ファラガットはモービル湾攻撃の時、63歳。マストの上に陣取っているのも凄いが、Damn などという下品な言葉で怒鳴り返すのが素晴しい。
 既に艦隊は湾への侵入を開始しているのだ。こういう時に「では、機雷に気をつけて、そぉっと前進…」などと言っては、艦隊は全滅するだろう。作戦が進行してしまった以上、機雷があろうが、砲丸が飛んで来ようが、簡潔に叱り飛ばすしかない。
 訳し方としては、「糞くらえ」が一般的だが、「機雷なんて知るか!全速前進!」でも良いかもしれない。
 ファラガットの名前はアメリカ海軍艦船名になり、1992年に除籍となった駆逐艦ファラガットは、モットーがまさに Damn the torpedoes, full speed ahead ! だった。

 それにしても、無知とは恐ろしい。しかし知らないからこそ、知ると言う冒険を楽しめる。
 今回の場合、ジョン・W・テンチ少佐をはじめとした、テンチ兄弟と南北戦争に関して検索をしている過程で、知識を得た。ありがとう、ベンモントのひいおじいちゃん。


TP&HBのサード・アルバム Damn the torpedoes 「破壊」

My first BOSE2008/08/17 20:36

 オーディオを買い換えた。

 私は音楽好きのわりに、あまりオーディオ機器に興味がない。CDとラジオが聴ければ良い…程度の認識で、何十万円もするようなスピーカーには食指が動かない。
 そもそも、私は自分で出す音にさえ無頓着な性質なので、ましてやプロのミュージシャンが録音したものに関して、音質でその感動加減が増減もしない。良い音楽は、雑音だらけの電波に乗っていようが、中学生の時に宝物にしていた貧弱なラジカセから聞こえてこようが、関係ない。

 そうは言っても、長年使っていたオーディオは、使わない機能も多いし、図体がでかいので、買い換えることにした。それにあたり、やはりコンパクトなつくりのものが欲しい。
 そして、すこぉしだけ音質に贅沢をしたら、すこぉし幸せな気持ちになるかも知れない…そこで目をつけたのが、BOSEである。

 BOSE ボーズ。マサチューセッツ工科大学の学者が、より良い音を求めた始めた会社だ。音響機器としては、高級の部類に入るのかもしれない。しかし私程度でも少し頑張れば手が届かないでもない、この世界での「お手頃感」のある、メーカーではないだろうか。
 なにせ、本当に懲りにこったら、目玉が飛び出すような、凄まじい金額の世界になるのが、音響機器だ。私など、それほどのお金をかけるなら海外でもライブを見に行くか、いっそ自分で演奏を習った方が良いのではないかと思ってしまう。
 ともあれ、私が今回買ったのがこれ。



 Wave Music System CDと、ラジオが聴けるだけ。シンプル,かつコンパクトで良い。
 さっそく何を聴くか…クラシック?いやいや、トムさんでしょう…。やはりそれまで使っていたコンポより、だいぶ良い音がする。それでも結局は、「Full Moon Feverは名作アルバムだなぁ…」という感想におちついた。
 一応、グールドのバッハなぞも聴いてみたが。グールドの唸り声が、やたらときれいに聞こえたような気がする。さすがBOSE。

その服はどこで売っているんですか?2008/08/23 00:55

 ビートルズは音楽的に画期的な存在だったと同時に、あのルックスも魅力的だった。方向はそれぞれだが(好みは分かれると言う意味)、可愛い顔の四人は、革ジャケットを着ても、スマートなモッズスーツを着ても、サイケでラブ&ピースなお花満開でもよく似合っていた。
 ライブ活動を停止した後、服装はそれぞれの好みに任されたのか、個性が発揮された。もっとも「オシャレ」と言われているのはリンゴだと思うが、これは「センスが良い」という意味も含まれているのだろうか。
 一番の美男子であるジョージも服装にはこだわりがあるようで、それぞれの年齢の時に、素敵な服を着ている。…が、時々「その選択は正しいのか?!」と思わざるを得ない時もある
 それでも美男子は得なもので、「服は変だけど、やっぱジョージは格好良いね!」で、大方は済んでしまう。

 しかしこれは、どの理性を発動して処理すれば良いのだろうか。



 この格好の夫を、家から送り出したパティにとっては、モデル生命にかかわる問題ではないだろうか。それとも、夫婦間の危機の証なのか。(「ジョージ!このスーツ着て!最高よ!」…)

 この証拠写真は、アンソロジーにばっちり出ていたもの。
 トムさんは、唯一太ってた1~2年の写真,映像が極端に少ない。自ら抹殺して黒歴史化を図っているかどうかは知らないが、そのあたりジョージほど肝は太くなさそうだ。私としては歓迎の傾向だ。