ゲティスバーグの二日目2010/05/05 22:40

 ゲティスバーグの戦いと言っても、ゲティスバーグの町中で市街戦が展開されたわけではない。実際の戦場は、主に市街の南側だった。ゲティスバーグの戦い二日目、1863年7月2日の戦闘は、南軍のリーがロングストリートが北軍の西側を南下させて、南端から順々に攻撃を仕掛けることから始まった。
 始まったとは言っても、この南軍の攻撃はのっけからつまづいていた。リーは速攻を期して午前中には作戦実行に移りたかったが、発令そのものが昼近くであり、さらに万事慎重なロングストリートの性格を反映して、攻撃開始は午後四時ごろまでずれこんでいた。

 兵力の量で勝る北軍のミードにしてみれば、手堅い陣地を敷いてひたすら南軍の攻撃を跳ね返し続ければ、負けることはなかった。しかも南軍の攻撃開始が遅れていたのだから、防御態勢を取る北軍には準備をする時間がたっぷりあった。
 ところが、南北に長い北軍陣地の中で、南の方に位置するダニエル・シックルズの軍団がまるまる、前夜にハンコックの指示で固めてあったセメタリー・リッジからずっと前進して、南軍がやってくる街道までせり出していたのである。防御態勢を整えねばならない北軍にとって、この突出は明らかに「破れ目」となる弱点だった。
 ポトマック軍総司令官であるミード自ら、シックルズの元に駆けつけて命令不服従を責めるという体たらくだったが、何にせよ既に手遅れだった。ロングストリートは攻撃を開始し、おもにリトル・ラウンドトップ(小円丘)と呼ばれる丘を中心に大激戦となった。
 シックルズの独断行動の理由は、いくつか挙げられている。しかし、彼自身が招いた激戦の結果、シックルズは右足を吹っ飛ばされた。このため、彼は軍法会議にかけられることもなく、独断行動の理由ははっきりしないままだった。
 どうもこのシックルズという人物、戦前は娼婦同伴で州議会にやってきたり、妻を置き去りにしてその娼婦とイギリス旅行に行ったり、妻の浮気相手を堂々と射殺しておいて、社交界のコネを駆使し、マスコミを味方につけて無罪になるなど、女性の身としては好きになれないと言うことは、一応コメントしておく。

 とにかく、シックルズの独断のせいで北軍は思わぬ苦戦を強いられることになった。南軍ロングストリートの攻撃も、決して怒涛の如くではなかったのにも関わらずである。しかも南軍の北側から攻撃するユーエルの第二軍は攻撃のタイミングを計りかねていたし、そもそも南軍は全軍が勢ぞろいもしていなかった(第一軍ピケット師団と、スチュアートの騎兵隊が未着)。
 北軍の中央部で防御を担当していたハンコックはてんてこ舞いだった。シックルズ支援のために自軍を割いていたし、今度は南軍第三軍A.P. ヒル配下の師団が攻撃をしてくる。
 これを跳ね返すためにハンコックの指示で反撃に出た第一ミネソタ連隊は、死傷率82パーセントというべらぼうな壊滅状態だった。それでも、この犠牲は無駄にならず、北軍は持ちこたえた。のちの「ピケット・チャージ」と比較してみると、同じ壊滅状態でも、最終的に勝つか負けるかで、印象がだいぶ変わる。
 
 北側で攻撃のタイミングを計っていたユーエルも日没近くに攻撃を開始したが、結局北軍の防御戦線を打ち破るまでには至らなかった。ミードは、攻撃される箇所が発生するたびにそこへ兵力を移動させるという、対処戦略を展開したに過ぎないが、兵力に勝る方が防御に徹するとすれば、これが最善だったのだろう。
 とにかく、両軍ともに膨大な死傷者を出した。南軍は全力で攻めたし、シックルズの「破れ目」というチャンスもあった。しかし、北軍は守り切った。

戦場はゲティスバーグ2010/04/15 21:34

 歴史と言う物は、後の世になって眺めれば、起きた出来事は起こるべくして起こり、その場所も必然的にそこに定まったように見える。出来事の結果も、条件や環境が導く、必然として実を結ぶ。だから私はいわゆる「陰謀説」のようなものは信じないし(本能寺の変は、誰かが光秀を操った結果だなんてまったく思わない)、歴史における大まかな運命を信じることにしている。
 細かな所が多少違っていても、歴史はなるようになる。たとえジャンヌ・ダルクが登場しなくても、百年戦争はフランスの勝利で終わっただろうし、1957年7月6日にジョンとポールが出会わず、ビートルズが結成されなくても、同じような誰かがビートルズと同じような役割を果たしただろう。

 前置きが長くなった。とにかく、1863年7月1日、ペンシルベニア州ゲティスバーグで、それまで距離を取りながら北上していた南北両軍の戦闘が始まった。
 これは歴史の必然であり、ゲティスバーグはその戦いの地として相応しい場所なのだが、南軍のリーにとっては、やや意外だったかもしれない。もし、北軍の東側をぐるりと回っているスチュアートの騎兵が、もっと早くリーの本体と接触し、北軍の動きを知らせていたら、リーはゲティスバーグこそ、その地だともっと早く確信しただろう。そして、行軍の動きを速め、いち早く全軍をゲティスバーグに集結していただろう。
 しかし、スチュアートは南北両軍がヴァージニア州を抜けて、ペンシルベニア州に入っても、リーの元へは戻ってきていなかった。現実としては、まずA.P.ヒルの第三軍が先行し、後からロングストリートの第一軍、ユーエルの第二軍は北へ迂回していた。

 一方、北軍ポトマック軍司令官に就任したばかりのミードにしても、やおら張り切って全軍を挙げた一大決戦を展開しようとしていた訳ではない。いつかはリーと遭遇することを予想しつつも、ソロリソロリと軍を北上させていた。
 やがて、北軍の先行部隊だったビュフォードの騎兵が、6月30日の午後に、ゲティスバーグの町で南軍の一部と接触した。物資不足気味の南軍兵士が、靴を求めて来たところだった ― と、言うのが定説である。南軍側は、A.P.ヒル率いる第三軍の先行部隊が、最初にゲティスバーグに到着した。この先行部隊同士は、翌7月1日の早朝から、激しい戦闘を開始した。

 北軍ではビュフォードの後方から、レノルズの歩兵が到着したが、南軍の優勢で戦闘は推移した。後方で報告を受けた南軍のリーは、このゲティスバーグが決戦の地になるのかどうか、まだ判断しかねていた。こういう時、より現場に近い部隊の指揮官の判断力が物を言う。この場合、南軍でその状況に立ったのは、第二軍を率いるのユーエルだった。第二軍は、北の迂回路から、ゲティスバーグに進んでおり、北軍は西から(南軍・ヒルの第三軍)と、北から(南軍・ユーエルの第二軍)の挟みうちに遭った。これによって、リーも全軍に進撃を命令。明確に、ゲティスバーグが決戦場と思い定めたのは、この時だろう。
 北軍は大部分が未だ戦場に到着せず、少将であるレノルズが戦死するほどの大苦戦だった。やがて、ゲティスバーグ南の丘― セメテリー・ヒルまで追いやられたのである。
 7月1日の夕方、ユーエルの第二軍では、さらに攻撃を仕掛けてセメテリー・ヒルを落とすかどうかで、議論があったらしい。リーの指示はない。ただ、大原則として「すべての軍が集結するまで、全面的な戦闘はしない」という指示が生きていた。この時点で、まだロングストリートの第一軍は到着していない。ユーエルは、戦闘停止を決定した。

 このユーエルが直面した7月1日夕方の状況は、はたしてリーが戒める「全面的な戦闘」だったのだろうか?21世紀を生きる私たちにしてみれば、答えは否だろう。北軍のミードがゲティスバーグに到着したのは、夜になってからだった。
 私たちには、「もし南軍第二軍を率いるのがユーエルではなく、ストーンウォール・ジャクソンだったら?」と想像することもできる。彼だった、多少のリスクを覚悟しつつも、自分の判断で(もしくは運命を信じる性質のジャクソンらしい行動として)、セメテリー・ヒルへ攻撃を仕掛けていたかもしれない。
 とにかく、現実はそうはならなかった。北軍は命拾いをした形になる。戦死したレノルズに代わって指揮をとったハンコック少将が夜のうちに、軍の立て直しに成功し、さらに北軍本体が、ゲティスバーグに到着しつつあった。

北軍人事2010/03/23 23:29

 ブランディ・ステーションの戦いの1週間後 ― 1863年6月16日、リーは73000の兵を率いて、本格的な北部侵攻へと向かった。
 先鋒の第二軍、ユーエルはヴァージニアとウェスト・ヴァージニアを隔てるシェナンドア渓谷の西側から、第一軍のロングストリートは、その東側から北上する。第三軍のA.P.ヒルは、北軍フッカーの動きを見定めるために、やや遅れた。
 一方、スチュアートの騎兵は南軍主力の西に位置するフッカーの北軍115000の更に東側から、機動力を使ってぐるりと回る動きで北を目指していた。

 リーが大規模な北部侵攻を目論んでいる事を知ったフッカーは、リンカーンに対して、南軍後方に位置するA.P.ヒルを攻撃し、向後の憂いを排した上で(無論、これはフッカーの想像)、南部連合の首都リッチモンドを攻撃しようと提案した。
 しかし、さすがにリンカーンはリーの強さに懲りていた。逆にいえば、フッカーは懲りていなかったのだろうか。とにかく、リンカーンはフッカーのこの提案を却下した。
 「貴殿の目標はリーの軍勢だ。リッチモンドではない。」

 リーが分けた南軍の三つの軍団は、フッカーの北軍が並行して北上していくのを見定めて、さらに距離を保ちつつ、北上を続けた。
 これまでで最も大規模な南軍の北上は、言うほどすんなりとは進まない。ところどころで北軍の斥候などと散発的な戦闘を展開したり、渓谷道を超えたりで、各軍団、さらにその下の師団はそれぞれの道からペンシルベニア州へと進んだ。
 リーとしては、フッカー本体との戦闘は避けつつ、ペンシルベニア州 ― それこそニューヨークさえ視界に入るような北部に入ってから軍を集結させ、一気に北軍本体に打撃を与えたかった。そのためには、どのタイミングの、どの地点に軍勢を集めるべきか、その時の北軍陣容がどうなのか、正確に知る必要があった。
 それまで、その種の重要な情報は、スチュアートが騎兵の特質 ― 機動性を駆使して、正確,かつ定期的にリーにもたらしていた。しかしこの時、その機能が満足に働かなかった。
 フッカーの本体は西に南軍の北上を見ながら、並行するように北上している。そのさらに東側をぐるりと回るのは、騎兵といえども、容易ではなかった。しかも、半島作戦・七日間戦争の頃とは違い、北軍もそろそろ訓練が行き届いて、整然とした行軍ができるようになっている。それでも、スチュアートは北軍のさらに「北側」を回って、包囲するように南軍本体へ合流することにこだわった。
 さらに、スチュアートには北軍に遭遇するたびに軍備品奪取の権限が与えられており、彼はその任をもいちいち全うしようとしていた。
 後の世から見ればこのスチュアートの「二兎追い」は愚行のようにも見えるが、しかし南軍の物資不足は、慢性的かつ重大な問題だった。スチュアートはどこかで見切りをつけるべきだったかもしれないが、それは難しいと言わねばならない。

 この状況下でも、不思議なことに北軍では上層部で揉め事が絶えなかった。
 要するに、フッカーの意見が、ワシントンのリンカーンや、総司令官ハレックと合わず、小さな対立がいちいち面倒な問題になっていたのだ。
 6月下旬、南軍を睨みながらの北上の最中、フッカーはリンカーンやハレックに対して、ポトマック軍指揮官辞職の意をちらつかせながら、自分の意見を押し通そうとした。フッカーにしてみれば自分以外、他にリーとやり合える指揮官など居ないだろうと言いたかったのだろう。リンカーンにしてみれば、たしかにどの指揮官もリーと対等ではないが、フッカーもその例外ではなかった。

 フッカーの「はったり」である辞意を、リンカーンは受諾した。6月28日付で、ポトマック軍の指揮権は、フッカーから、ジョージ・ゴードン・ミード少将に移った。フッカーが指揮官になってから5ヶ月後。ゲティスバーグの戦いの6日前のことである。

ブランディ・ステーション2010/02/21 22:42

 1863年5月上旬、チャンセラーズビルでの大勝後、リーは、派手な負け続けで厭戦感が漂いつつある北部に、さらなる打撃を与え、南部連合に有利な和睦を狙おうとしていた。そのためには、シェナンドア渓谷沿いに大きく北へ回り込み、ニューヨークにまで南部からの脅威を伝えなければならない。
 リーは70000以上の戦力を再編成し、アンティータムの戦いでの敗退以来、再度の北部への積極的侵攻を試みた。チャンセラーズビル付近の樹海を抜け、さらに北西ヴァージニア州カルペパーに軍をすすめた。
 一方、大敗からの挽回を試みる北軍のフッカーは、リーの次の手がどうなるかを模索すると同時に、軍勢の再編にも手をつけた。その一つは、主力騎兵指揮官を、「無能」と言われがちなストーンマンから、アルフレッド・プレザントン少将にかえたことである。

 兵糧や物資が不足しがちな南軍だが、大勝しているうちに戦意を駆って北部へ攻め込まなければならない。そのためにも、騎兵指揮官のスチュアートは、戦闘演習も兼ねた閲兵式を行うことになった。カルペパー北側の最前線、オレンジ-アレクサンドリア鉄道のブランディ・ステーションにおいて、6月5日にそれを挙行した。
 しかしこの時、リーが出席できず、規模を縮小した閲兵式を再度、リー臨席のもと6月7日に行った。これは、派手好きで、見栄坊なスチュアートの評判を、少なからず落とした(もっとも、二回目はリーの要望でもあったようだ。リーは、スチュアートのモチベーションを高める狙いがあったのだろう)。
 北軍騎兵隊のプレザントンは、この閲兵式の情報を耳にすると、ブランディステーション急襲を決心した。

 6月9日早朝、ブランディ・ステーションに駐留していた南軍騎兵は9500。北軍11000の急襲で、南軍騎兵はどっと崩れた。最初の戦闘から離れたところに居たスチュアートは、この時すぐには状況把握ができず、かなり斥候とのやりとりで手間取った。
 騎兵同士の衝突は、通常短時間で終わりがちだが、この時は大規模な人数での衝突であり、スチュアートの配下にある指揮官たちの優秀さもあって、戦闘は異例の長さになった。南軍の中では、リーの長男のルーニー・リーが負傷し、捕虜になっている(後に捕虜交換で南軍に復帰)。
 スチュアートにしてみれば、ここで崩れ切るわけにはいかなかった。彼が任された大規模な騎兵の背後 ― カルペパーには、リーが率いる、歩兵を中心とした主力が控えているのだ。ここで踏ん張らねば、北部侵攻も何もあったものではない。
 結局、日没近くなって ― つまり、10時間以上の戦闘の末、南軍騎兵は大砲の効果的な展開で、プレザントンの北軍を押し戻した。死傷者数は北軍900,南軍500ほどだったが、南軍に都合よく判断して引き分け(無論、スチュアートは「勝った」と報告したが)、気分的には北軍の勝利が大方の見方だった。
 
 さらに重要なのはこの戦いで、これまで圧倒的優位を誇っていた南軍騎兵に対して、北軍騎兵がまともに戦えるということを証明したことだった。スチュアートの副官を務めたヘンリー・マクレラン(ジョン・ぺラムの後任。北軍ポトマック軍司令官だったジョージ・マクレランの従兄弟)は、のちにこう言っている。
 「この戦いにおける計り知れないほど重要な成果は、この戦いが北軍の騎兵を『作った』ということだ。それまで、北軍騎兵は明らかに南軍のそれよりも劣っていた。この日から、指揮官と共に北軍騎兵たちは自信を持ち、これに続く戦場において、猛烈に戦えるようになったのだ。」

敦盛2010/01/26 22:13

 昨日、なんとなくネットニュースを見ていたら、こんな記事があった。

信長ロボが大立ちまわり 能の「敦盛」も舞えます
 名古屋開府400年に合わせて、よろいをまとった織田信長の二足歩行ロボットを名古屋市内の業者が制作した。剣術だけでなく、信長が好んだ能の演目「敦盛」も舞える。徳川家康と豊臣秀吉も開発中で、4月には三英傑が勢ぞろいする。


 あまりにも「お約束」が守られ過ぎて、思わず笑ってしまった。即ち、少し物を識った風の人が、必ず「信長が舞うのはの『敦盛』じゃなくて、幸若舞の『敦盛』ですよ!」という訂正(ツッコミ)を行う。

 まず、敦盛。
 平敦盛というと、一ノ谷の合戦で熊谷直実に討ち取られ、青葉の笛を所持していた ― 以外のエピソードが思い浮かばない。そもそも誰の息子だったかと一瞬迷ったが、確認してみると経盛(清盛の次弟)の末っ子だった。
 経盛その人が良き弟としての穏やかなサポート役という印象がある。有能な歌人でもあった。彼の息子たちも経正が琵琶、敦盛が笛の名手と、典雅な雰囲気のある一家だ。
 一ノ谷と言えば奇襲中の奇襲で、これほど完璧に遂行されれば、逃げ遅れもするというものである。一ノ谷では、平家の公達が多く命を落とし、敦盛もその一人だった。1169年生まれと伝わっているので、死んだとき15歳。数えで16歳だった。

 平家物語に登場する敦盛と直実のエピソードをもとに、作られた能が「敦盛」である。無論、二番目物 ― 私は修羅物という呼び方の方が好きだ。
 源平合戦の後、出家して蓮生と名乗った直実が、かつての戦場を訪れ、敦盛の霊にと出会う ― という、能によくあるストーリー。作者は世阿弥となっているが、どうも能で作者が良く分からない場合(それがほとんど)、片っぱしから「世阿弥作」ということにしておくという傾向があるような気がする(余談だが、雅楽の研究をしていた友人が資料を読んでいると、何事かあれば何でもかんでも「楽制改革で、博雅三位(はくがのさんみ,源博雅のこと)がそうした!」と書いてあり、辟易したらしい)。
 面は、「十六」という敦盛の歳にちなんだ名前の、若い貴公子を表すものを用いる。そのほか、前シテが3~4人のツレ(しかも草刈男という良く分からない職業)とともに出てくること、ワキが故事の当事者であることなどが、この能の特徴だ。
 ただし私自身の稽古の記憶に、「敦盛」は無い。舞台も一度しか見たことがないし、能の定番かどうかは分からない。

 織田信長が桶狭間の戦いに臨んで、「敦盛」の一節を謡いつつ舞ったというのは、有名なエピソード。その場面は信長とほぼ同時代人である太田牛一が記した「信長公記」に登場するので、真っ赤な嘘というわけではなさそうだ。
 「信長公記」には、こうある。

此時 信長敦盛の舞を遊ばし候 人間五十年 下天の内をくらぶれば 夢幻のごとくなり

 私の手持ちの観世流百番集を見ても、この「人間五十年 下天の内をくらぶれば 夢幻のごとくなり」という一節は出てこない。このことをもって、信長が舞ったのは能の「敦盛」にあらず、幸若舞の「敦盛」だと分かる。
 しかし、肝心の幸若舞というものは、どうもよく分からない芸能らしい。15世紀には成立したらしく、室町時代に栄えた。謡と舞を伴う。その題材の多くは軍記物から発しており、能の修羅物にも通じる。当然武士に愛好されたのだが、能ほどの愛好者人口は得られず、江戸時代の終焉とともに、廃れてしまった。

 幸若舞は福岡県の保存会で、詞章と一部の節回しだけが、わずかに伝承されていたに過ぎない。これまで、テレビや映画に登場した信長の舞は、能や歌舞伎、その他の芸能から所作を拝借して、「作った物」であり、残念ながら想像上の幸若舞である。
 それでも、幸若舞は、恵まれている。長い歴史の中で、数知れぬほどの歌や舞、音楽が忘れ去られていったのだ。
 信長という最高ランクの歴史有名人がひとさし舞ったという記述があったからこそ、いまだに私たちは幸若舞という芸能の存在を知ることになったのだ。信長が舞わずに、ただ湯づけをかき込み、馬を出してしまっていたら、21世紀のロボットも舞うことはなかっただろう。

 どうでも良いことだが、ドラマなどで信長の「敦盛」のシーンを見ると、いつも思うことがある。
 「濃!鼓をもて!」「はいッ!」…と、ばかりに、素早く濃姫が鼓をぶっ叩いて信長が舞い始めるのだが…
 あの鼓は最初から組んであるのだろうか?
 私がその役を仰せつかるとしたら、まずワタワタと風呂敷袋を解いて(私は風呂敷に包んでいるんだ!)、さらに袋から胴と皮を出して、組んで、結んで、調(しらべ)を…調節…するのだが、あまり上手くいかない。ペシッ!あ、鳴らない。ペシッ!だめだ!先生!先生、お調子見てください!息を吐きかけ…いや、桶狭間は土砂降りだったんだ。清州にも湿気もかなりあったはずだから…ペシッ!だめだ!ペシッ!…そんな事をモタモタやっているうちに、信長にぶった斬られてしまいそうだ。

北へ向かう "Rebels"2010/01/24 22:49

 この南北戦争関係の記事の中ではあまり目立つように記述されていないが(つまり、私の興味をひくタイプではないという意味で)、リーが信頼する軍団指揮官の第一には死んだストーンウォール・ジャクソンと、もうひとりジェイムズ・ロングストリートが居た。
 いくらか神秘的な閃きと突進力を持つジャクソンに対し、三歳年上のロングストリートはやや慎重で手堅い軍事行動が多かった。その意味で、リーには双方の能力がバランスよく発揮されることが理想的だった。
 チャンセラーズヴィルでの完全なる南軍の勝利は、リーの意図と、ジャクソンの絶妙な奇襲攻撃、そのあとのダメ押し攻撃の勝利で、ロングストリートの出る幕はなかった。と、言うより彼はその場に居なかった。
 1862年暮れのフレデリックスバーグの戦いでの勝利後、ロングストリートは自分の軍団を率いて西部戦線のサフォーク包囲戦に加わっていたためである。この行動は、ロングストリートの提案を、リーが承認したものだったが、大した成果は上げれなかった。ロングストリートはチャンセラーズヴィル後に、リーの元へ復帰した。

 さて、ロングストリートが戻ってきたところで、リーは軍の再編をしなければならなかった。手持ちの軍勢は70000。それまで、リーが指揮した中では最大規模だった。
 ロングストリートはそのまま第一軍の司令官に、ジャクソンを失った第二軍は二つに分かれ、一方はジャクソン配下のリチャード・イーウェルが、もう一方は第三軍として、やはりジャクソン配下だったA.P.ヒルを中将に格上した上で、担当することになった。

 この第三軍の司令官については、ジェブ・スチュアートが就任するのではないかという噂が一部で流れた。
 チャンセラーズヴィルでジャクソンが倒れ、さらにA.P.ヒルが負傷したとき、第二軍の指揮権は次席のローズ准将が受け持つのが筋だったが、あの緊迫した局面において、それが最善の策だとは、複数の人間が考えなかった。ローズ自身もしかりで、急遽第二軍の指揮を、スチュアートに依頼したのだ。
 スチュアート少将は独立した騎兵師団の指揮官。立場的に多少の融通がきくのは事実だった。指揮権のスチュアートへの移譲は、まだ生きていたジャクソンの意志とも、A.P.ヒルの意志とも、言われている。二人ともスチュアートの親友であり、彼を良く知っているだけにあり得る話だった。ともあれ、この指揮権移譲を、リーは事後承認した。
 チャンセラーズヴルの戦いは、派手な奇襲とともに、徹底した南軍のダメ押し攻撃が功を奏した戦いだったが、このダメ押しを、華々しく指揮したのが、スチュアートだった。
 スチュアートとしてはこの勢いを駆って、自らの中将への昇進と、第二軍指揮官への就任を期待していたらしい。この積極的で明るい性格の男は、それを信じていた節がある。第一、彼はリーに非常に愛されており、この昇進は非現実的ではなかった。

 リーは、スチュアートをもう一人の息子のように愛しており、それゆえにこの若い(30歳)少将の危うさを感じていたのかもしれない。軍の再編成では、手堅くスチュアートよりも先輩の二人が中将として第二軍,第三軍を担当することになった。
 拗ねたスチュアートが辞表でも出すのではと言う噂もあったが、彼もそこまで馬鹿ではなかった。しかも、彼は軍団指揮官になりたいと思う一方で、自分が育て、中世の騎士よろしく華々しく、有能な騎兵隊の指揮官であることにも執着していた。このあたりが、スチュアートの面白いところだ。
 リーは、スチュアートの手元に集め得るだけの騎兵を集中させた。その結果、スチュアートは10000という大騎兵団の指揮官となった。この騎兵の中には、リーの息子ルーニーや、甥フィッツヒューの部隊も含まれており、両者ともスチュアートの親友だった。
 リーのこの配慮に、スチュアートは応えなければならないと、気負っていた。この気負いが、吉と出るか凶と出るか。

 一方、第二軍の指揮官になったリチャード・イーウェル中将。このハゲ頭の男は、身体頑強とは言えなかった。すでに片足を失っていたが、それはネルソン提督の前例もある通り問題ではなく、内蔵に何かの疾患をかかえていたことが、重大だった。
 なんとなく調子が悪いのがこの男の常で、時として本当に伏せってしまうことがあった。このイーウェルの「気分」は、多少その指揮に影響したに違いない。
 彼が積極的なジャクソンの部下だったときは、よくやっていた。イーウェルが指揮官になってからは、その下にデュバル・アーリーというこれまた攻撃的な部下が居た。しかし、ジャクソンはイーウェルの上司であり、アーリーは部下であることが、決定的に違う。このことは、軽視するべきではないだろう。
 偶然だろうか、第三軍の指揮官となったA.P. ヒルも病気持ちだった。この後に控える大会戦に、ヒルの病気も影響したかどうかと言うと、それは詳しい資料を見てみる必要がある。

 ともあれ、チャンセラーズヴィルの勝利後、リーはさらなる北部侵攻を決定した。ゲティスバーグへの道は、北へと延びる。それぞれの指揮官に率いられた南軍の兵士たちは、北へ向かう。時に、1863年6月である。

ウエストポイント2010/01/03 22:14

 シンガーになると決めてそのことだけを考えるようになる前、わたしはウエストポイントへ行きたいと思っていた。ベッドの上で死ぬのではなく、英雄的に戦って死ぬ自分の姿をいつも想像していた。大部隊を率いる将軍になりたくて、どうすればそのすばらしい世界へ行けるのかと考えた。ウエストポイントに入学する方法を尋ねると、父はショックを受けた顔で、わたしの姓には「デ」や「フォン」がついていないこと、ウエストポイントには縁故と適切な身元保証がないと入れないことを教えてくれた。これからは、そういうものがどうすれば手に入るのかをふたりで考えていこうというのが、父が授けてくれた助言だった。
 (ボブ・ディラン自伝 第2章 「失われた土地」より)


 ウエストポイントと言えば、ニューヨーク州のその地名より、アメリカ陸軍士官学校を指し示す言葉として知られている。
 ディランが子供のころのこの挿話は、どこかトンチンカンな味わいがあるが、ウエストポイントに入学するには、貴族的な家系の助けが必要だというのは、多少の真実を含んでいる。特に南北戦争前などは、この傾向が強い。多くのウエストポイントに入る士官候補生たちには身内に社会的地位の高い人がおり、そのコネを必要としていた。
 身分の高いもの(つまり貴族)がその地位にある者の義務(Noblesse Oblige)として、軍隊の指揮官になるという考え方は、ヨーロッパから発して未だに受け継がれている。ジョージア州ニューナンの裕福な大農園主の家に生まれたテンチ家の兄弟(ベンモント・テンチの曾祖父とその弟たち)も、この考え方のもと騎兵として志願したのだろう。

 ともあれ、いよいよ東部戦線はゲティスバーグへ向かうという段階いなって、私は登場人物の多さに困ってしまった。そこで、各将官を整理するために、ウエストポイントの卒業年順に、彼らをならべてみることにした。
 すると、当たり前のことだが名だたる指揮官たちが、ウエストポイントではそれぞれ同級生だったり、年の近い先輩後輩だったしたことがよく分かる。士官候補生のころ、彼らは互いに敵味方に分かれることなど、想像したのだろうか。それを思うと、ゲティスバーグ参加組以外も、リストに入れなければと思うようになった。

1837年卒業
 南軍
  ジュバル・アーリー:チャンセラーズビルでは、フレデイックスバーグの守備。ゲティスバーグでは、ユーエルの配下。
  (ルイス・アーミステッド:アーリーの頭を皿で殴ったため、ウエストポイントは中退。ゲティバーグでは、「ピケットの突撃」で戦死する)

1840年卒業
 南軍
  リチャード・ユーエル:ゲティウバーグ初日、彼のもう一押しの有無が大きなポイントになる。

1842年卒業
 南軍
  ジェイムズ・ロングストリート:リーの片腕。ゲティスバーグでは議論の的。
  D. H. ヒル:ゲティスバーグの時は、南方予備隊。
  ラファイエット・マクローズ:ゲティスバーグではロングストリートの配下。これまた議論の的。
 北軍
  (ウィリアム・ローズクランズ:西部戦線のため、ゲティスバーグは不参加。ただし、ジェイムズ・テンチが戦士したウエスト・バージニア戦役の指揮官だった人物。)
  (ジョン・ポープ:ゲティスバーグは不参加。マクレランの前任だったが、第二次マナッサスで大敗)

1843年卒業
 北軍
  (ユリシーズ・グラント:西部戦線なので、無論ゲティスバーグは不参加。ただし、最重要人物)

1844年卒業
 北軍
  アルフレッド・プレザントン:騎兵指揮官。スチュアートに対してライバル心あり。

1846年卒業
 南軍
    ジョージ・ピケット:ゲティスバーグにおける象徴的な存在
  (トーマス・(ストーンウォール)ジャクソン:無論、故人のためゲティスバーグは不参加)
 北軍
  (ジョージ・マクラレン:前前任のポトマック軍司令官。ゲティスバーグの時には解任されている)

1847年卒業
 南軍
  A. P. ヒル:ジャクソンの後を継いだが、ゲティスバーグでは体調不良のためか、精彩を欠く。

1853年卒業
 南軍
  ジョン・ベル・フッド:ロングストリートの配下だったが、窮屈を強いられ、不満を残す。
 北軍
  (フィリップ・シェリダン:西部戦線のためゲティスバーグは不参加)

1854年卒業
 南軍
  ジェブ・スチュアート:ご存じ、花咲ける騎兵隊長。

 私の眼にとまったのは、やはりスチュアートの飛びぬけた若さ。彼がいかにリーに(いや、ほかの上官にもだろう)愛された、優秀な騎兵指揮官だったのかがよく分かる。
 まだまだリストアップしきれていないが、とにかくウエストポイントでともに学んだ彼らは、それぞれの軍勢いを率いて、ゲティスバーグに向かうことになる。早々に到着したもの、遅刻したもの、積極果敢に仕掛けたもの、守りに入った者、それらが一点に集中して圧力が掛かり、一気に噴出した ― ゲティスバーグはそんな印象がある。歴史的な意義をゲティスバーグにのみ集中させるのは無理だが、そういうエネルギーの発火点としてのゲティスバーグは、いかにも魅力的だ。

真白き富士の嶺2009/12/20 00:00

 母や伯母の記憶によると、私の祖父は「真白き富士の嶺」という曲が好きで、よく歌っていたと言う。

 1910(明治43)年1月23日、神奈川県,逗子開成中学の生徒12人が、ボートの転覆事故で亡くなった。来年は、この事故からちょうど100年目にあたる。
 「真白き富士の嶺」は、「帰らぬ十二の雄々しきみたまに」とか、「ボートは沈みぬ 千尋の海原」などという歌詞でも分かるとおり、この事故で犠牲になった生徒たちへの鎮魂歌で、曲はアメリカかイギリスの歌謡を拝借しているらしい。
 「真白き富士の嶺」は大正年間にレコード化で広く知られるようになり、さらに昭和初期には映画が作られたため、人気歌謡となった。祖父がこの曲を知っていたのは、このような事情によるらしい。



 祖父は、1歳の時に父親 ― 私の曽祖父,山川有典(ありつね。「ゆうてんさん」とも呼ばれる)―を亡くした。明治期の海軍士官だった有典の早い死については、まず松島という軍艦の説明から始めなければならない。

 幕末の動乱期を経て成立した明治政府は、日本の近代化を進める中で、海軍軍備の充実を急務の一つと位置付けていた。そんな中、1890年進水となったのが、松島・橋立・厳島のいわゆる「三景艦」である。排水量4217トン、最大速力16ノットという巡洋艦だが、その砲は不釣合いなほど大掛かりだったらしい。
 松島は、1894年の日清戦争において伊東祐亨が乗船し、初代連合艦隊旗艦を務めた。黄海海戦(9月17日)では華々しく活躍 ― と言いたいところだが、日本連合艦隊は勝ちこそしたものの、状況はかなりの大混乱で、旗艦松島は前方左舷への砲弾直撃のため大穴を空けて、呉港に戻ってきている。
 日露戦争のころには、早くも松島型は旧式になっていた。1905年5月27日の日本海海戦では、第三艦隊に所属し、ロシア・バルチック艦隊を日本連合艦隊の主力の方へ誘導する役割を担った。司馬遼太郎曰く「老いぼれの送り狼」。

 日露戦争終戦後、松島は姉妹艦の橋立,厳島などと共に一線から退き、練習艦などの役割を得た。
 1908(明治41)年、松島は海軍兵学校第35期卒業の少尉候補生を含めた乗員370名で、香港,シンガポール,マニラ方面への遠洋航海に出た。4月27日、台湾澎湖諸島・馬公に寄港。そして4月30日の午前4時8分、彼女は突如、大爆発を起こして沈没した。
 僚艦から救助が向かったものの、結局乗員370名中、207名(内35名少尉候補生)が死亡した。当時、海軍少佐として松島に乗船していた曽祖父・山川有典は、この死者207名の一人だった。遺体はあがらなかったらしい。
 松島爆沈は火薬庫での爆発が原因となっているが、そもそもなぜ爆発したのかはよく分かっていない。旧日本海軍の軍艦では、このような謎の爆沈事故が数件発生しており、これらについては、吉村昭著の「陸奥爆沈」に詳しい。

 馬公では遺体の収容と共に、船体の一部引き揚げも行われた。松島に使われていた木材で作った花台が、祖父の家にもあったらしい。他にも砲身やスクリュー、ボートなどが引き揚げられた。砲身はその後、松島の慰霊碑になっている。
 一方、ボートは逗子開成中学へ無償で払い下げられた。1910年、12名の生徒が死んだボート事故は、この松島から引き揚げられたボートで起こった。

 「真白き富士の嶺」を愛唱していた祖父は、歌われている中学生たちを真冬の海へと引き込んだボートが、自分の父親とともに馬公の海に眠る松島のものだった事を、知っていたのだろうか。今となっては分からない。

CSS ストーンウォール2009/12/04 23:57

 [ The Live Anthology] デラックス・ボックスが届かない。
 日本国内のCDショップや、通販サイトからの購入は、端から混乱するだろうと見ていたから別に良い。だから複数の入手経路を確保し、到着を待っているのだが、一番当てにしていた経路からさえも届かない。
 あまりジリジリしすぎて発狂しそうなので、気を紛らす必要がある。だから、もはや音楽とは何の関係もない記事を書く。

 南北戦争となると、圧倒的に陸戦の話題になるが、以前デイヴィッド・ファラガットのエピソードを紹介したように、一応海軍も活動していた。
 南部連合の海軍は圧倒的に設備不足であったため、これを補うために当時最新鋭の装備を持った軍艦を、フランスの造船会社に発注した。1863年起工。造船中の船名は「スフィンクス」。南軍はこれCSS Stonewall と命名した。CSSとは、Confederate States Shipの略。Stonewallは、言うまでもなくストーンウォール・ジャクソンから来ている。
 前項で述べたとおり、ジャクソンは1863年5月に亡くなったのだが、それからほぼ時を置かずして、すでに伝説的だった将軍の名を軍艦名としたのだ。
 しかし、南北戦争の情勢は変化しつつあった。ストーンウォール建造中の1863年半ばから、北軍が優位に戦況をすすめるようになり、フランスに対して、ストーンウォールの引き渡しについて差し止めを申し出るにいたった。そこでストーンウォールはいったんデンマークに売却され、それから南部連合国が改めて購入するという手はずになった。
 ストーンウォールは1864年進水。その威力は北軍に恐怖を与えるのに十分であったが、彼女がアメリカに到着するころには戦争そのものが終わり、結局「アメリカ合衆国」が所有することになった。(司馬遼太郎の小説「燃えよ剣」には、「北軍の注文で建造された」とあるが、これは誤りだろう。)

 内戦が終わると、アメリカはストーンウォールを売りに出した。世界でも最新鋭の艦船である。誰が買うのかと思ったら、意外にもとんでもなく遠方からオファーが来た。日本である。徳川幕府が購入した。
 ちょうど、幕末の動乱期である。薩長よりも余程早く海軍に関しては近代的な装備しつつあった幕府だが、ストーンウォールがゆるゆると日本にやってきた1868年には、旧幕府軍と、新政府軍との内乱に突入していた。
 アメリカ人にしてみれば、数年前の自分たちを見る思いだったかもしれない。ともあれ、アメリカはストーンウォールの幕府への引き渡しを見合わせ、日本がどちらの政府に落ち着くかを見極めた。翌1869年、明治政府が新たな政府と認められ、晴れてストーンウォールは引き渡された。
 ここで彼女は改名するのだが、その名前が何やら凄い。甲鉄艦 ― 木造の船体に金属の鉄板を打ち付けたその重厚な構造に由来するのだろう。「ストーンウォール」を訳して「甲鉄艦」とされたかのような誤解もあるようだが、もちろん違う。

 明治政府は成立したものの、旧幕府軍の一部は北へと移動しながら抵抗を続けていた。その最後が、榎本武揚率いる箱館政権である。これは旧幕府の海軍が母体になっていたため、かなりの海軍装備を持っていたが、1869年には旗艦の「開陽」を海難で失っていた。一方、明治政府には最新鋭の甲鉄艦。箱館は戦力的にも圧倒的不利にあった。
 その甲鉄艦が、箱館政権討伐のために北上し、宮城県宮古湾に停泊した。
 そこで箱館側が発案したのが、大胆にも「奇襲で甲鉄艦を強奪してしまおう」という作戦である。自軍の船を相手に接舷させて兵士を送り込み、船ごと分捕ろうという、カリブの海賊ばりのとんでもない話なのだが、19世紀後半にもなって、これを本気でやった。1869年5月6日、宮古湾海戦である。
 箱館側も「開陽」ほどではないものの、そこそこの船「回天」などがあったが、どうもこの作戦はヤケクソにか思えない。ともあれ、フランス人顧問のアドバイスもあり、箱館政権の海軍奉行(大臣にあたる)荒井郁之助と、「回天」艦長・甲賀源吾は、この「甲鉄艦強奪作戦」を実行に移した。

 箱館側の兵士の多くは無論海軍だが、一部陸軍も参加しており、「回天」には、陸軍奉行の土方歳三が乗船、兵士としては陸軍所属の新選組や彰義隊などが加わった。
 作戦決行の朝、政府軍の艦船のほとんどは奇襲など想像だにしておらず、回天は簡単に甲鉄に接近した。しかし、回天は小回りが利かず、接舷どころか、ほぼ頭から突っ込んでしまった。このため回天から甲鉄へ一気に兵士がなだれ込むことができなかった。要するにマゴマゴしているうちに、甲鉄の方の戦闘態勢が整ってしまい、箱館側は一斉射撃を食らうことになった。
 さらに、宮古湾に停泊していた別の新政府軍艦の中では、薩摩の春日がいち早く応戦を開始。短時間で回天は作戦の失敗を悟ることになった。ちなみに、この時の春日には23歳の東郷平八郎(後の連合艦隊司令長官)が乗船していた。
 回天は甲鉄の奪取を諦め、宮古湾を離れ、箱館に戻った。実のところ、トンデモない作戦の割に、回天はよくやった方で、艦長・甲賀の姿は語り草になった。もっとも、彼は回天を箱館まで運ぶことができなかった。戦闘の最中、舵を取りながら複数の銃弾を受けて、死亡したのだ。帰路は海軍奉行の荒井自ら舵を取ったというのだから、その壮絶さが想像される。

 その後、甲鉄艦は箱館戦争に加わり、その終結を見ることになった。1871年には「東(あずま)艦」と名をあらためたが、その後は大きな戦跡を残すことなく1888年に除籍となった。

 南部連合軍の伝説的な将軍の名を与えられ、南北戦争を戦うはずだったストーンウォール。彼女は、はるか極東の島国の小さな湾で、よもやサムライの接舷奪取作戦にさらされようとは、思いもしなかっただろう。しかも、新選組なんてものまで乗り込んでくるのだから、いささかチャンバラ講談じみている。
 
 ところで、回天に乗船した土方歳三は、宮古湾海戦の戦闘の最中は、何をしていたのだろう。彼は陸軍奉行であって、まさか新選組の一員として加わったわけでもあるまい。
 小説、ドラマ的には抜刀して(甲鉄にはガドリング砲が装備されていたらしいのだが…)乗り込みそうだが、事実やいかに。
 しかるべき所で調べれば分かるのだろうが、今はやっぱりTP&HBで頭がいっぱいなので、調べないでいる。

右腕の喪失2009/12/02 23:55

 1863年5月2日の夕刻、ストーンウォール・ジャクソン中将に率いられた南部連合の第二軍は、樹海の中、チャンセラーズビル付近で、大迂回の末の、奇襲攻撃に成功した。北軍は一気に崩れ、北東方面に退却した。

 ジャクソンは勢いがあるうちに、追い打ちをかけ、勝利を確固たるものにすることの重要性を知っていた(実際、南北ともに、何度も勝利を決定づけるチャンスを逸しては、戦争の長期化を招いていたのだ)。
 ジャクソンは自ら、夜襲のための偵察に出た。5月とはいえ、日没後の樹海の中である。ジャクソンの年若い親友であるジェブ・スチュアートは、友人が将軍らしく見えるようにと美しい軍服を進呈し、ジャクソンはそれを着用していたのだが、この状況では視覚的な役には立たなかった。
 偵察から戻ってきたジャクソンの一行を、ノースカロライナ騎兵連隊は見分けることができず、さらに戦闘のせいで気が昂ぶっていた彼らは、自軍の将であるジャクソンを、銃撃してしまったのである。

 ジャクソンは右腕に1発、左腕に2発被弾した。状況がやや混乱し、彼の護送と手当は速やかには行われなかった。ともあれジャクソンは担架で、チャンドラーという農夫の家に担ぎ込まれた。チャンドラーは自宅の提供を申し出たが、自分の怪我をあまり重大なものだとは思っていなかったジャクソンはそれを断わり、農場事務所に滞在した。
 従軍医師のハンター・マクガイアが執刀して、銃弾の摘出手術が行われ、スチュアートからのプレゼントは切り裂かれることになった。さらに、ジャクソンは左腕を切断されたのである。
 経過は一時安定したかにみえたが、間もなく感染症から肺炎を併発した。高熱によって意識が混濁し、そこから回復することなく、5月10日、トーマス・“ストーンウォール”・ジャクソンは絶命した。39歳だった。
 最後の言葉は、マクガイア医師が記録している。

 「川を渡って、木陰で休もう…」 

 ジャクソンの遺体は、リッチモンドに運ばれたのち、ヴァージニア州レキシントンに埋葬された。今日では、「ザ・ストーンウォール・ジャクソン・メモリアル・セメタリー」となっている墓地である。
 彼の切断された左腕は別に、従軍牧師の手によって最後の戦場となった樹海の中、エルウッドというところに埋葬された。

 南北戦争においては、戦闘における戦死者もさることながら、ジャクソンのように負傷後に経過が悪化して亡くなる確率が、非常に高かった。19世紀後半とはいえ、まだまだ衛生観念の足りない時期で、しかも野戦病院ともなると、感染症による死亡の危険が避けられなかったのである。
 ジェイムズ・テンチ(ベンモント・テンチの曾祖父の弟)の、ウェスト・ヴァージニア戦役における死も、負傷した後の経過の悪化によるものだろう。

 ジャクソンの死は、ロバート・E・リー個人にとっては親しい友人の死であり、南部連合軍を率いる将軍としては、もっとも優秀な現場指揮官の喪失だった。ジャクソンの死に対するリーのコメントが、それをよくあらわしている。
 「彼は左腕を失ったが、私は右腕を失った。」
 この「右腕の喪失」は、さらに2ヶ月後、痛い実感としてリーを襲うことになる。
 ジェブ・スチュアートは、ジャクソンの死を「国家の災厄」と表現した。

 ジャクソンの未亡人メアリー・アンナ・ジャクソンは、後年「南部連合国の未亡人」と呼ばれた。それほどに、ジャクソンは南部にとって伝説的な人物になっていたのである。