Die nacht schoot Daan een Duitser dood2009/09/07 22:08

 名曲 "The Night They Drove Old Dixie Down" が好きなので、カバー・バージョンを物色したことがある。
 ある時、英語ではないカバーを発見した。タイトルは、"Die nacht schoot Daan een Duitser dood"

 私はとっさに、ドイツ語だと思った。Die Nacht で、瞬時にそう判断したのだ。ドイツ語なら、「キムラ・サガラ」の辞書がある。なんとか自分で翻訳できないだろうかと、さっそく奮闘したのだが…

Ome Daan is de naam
Jongs af aan oorlogsveteraan
Brigade Alphen en Chaam
Met opdracht terug te slaan
Ja, de winter van 4 op 5, kneep de honger
het lef uit je lijf
De tiende mei hij was erbij
Ome Daan, zag de vijand, legde aan

(Chorus)
Die nacht schoot Daan een Duitser dood
Op zijn kop gesprongen
Die nacht schoot Daan een Duitser dood
Onze jongens die zongen, zo van:
La, La, La, La, La, La,

Een week later zat ie weer thuis
Willemien ver over zee
Daantje, hé kom mee
‘t Verzet, NSB Nee
Nog ieder jaar de vierde mei
Ja dan haalt Daan zijn medailles erbij
Vergeven oké
Maar vergeten dus niet
De jeugd moet weten
Hoe hij haast het leven liet

(Chorus)

Ouwe taaie in Bronbeek
Dood ligt op de loer
Hij ziet een documentaire
Een mof herdenkt zijn broer
Die was net achttien, stoer en strak
Maar een kaaskop schoot ‘m van het dak
Dan het detail: Alphen en Chaem
En Ome Daan zijn heldendaad
Krijgt een jongensnaam

(Chorus)

 どうも様子がおかしい。ドイツ語特有のウムラウト(変母音の記号)がないし、どうもウナギっぽい言葉(aa とか ee とか…)が多すぎる。
 そこで、アーチスト,Jacob Klaasseから確認してみると、どうやらオランダ語らしいのだ。

 方向転換。さっそく最寄の図書館に行き、一冊だけある蘭日辞典を引っ張り出した。そして一つ一つの単語を調べた。
 分かったのは、このカバーの詞はオリジナル英語の翻訳ではないということ。題材は南北戦争ではなく、第二次世界大戦であること。大戦で戦った誰かの話、ドイツ兵が出てくる、どうやらドイツ兵が死ぬらしい…

 これだけの材料で翻訳するのはさすがに無理なので、次にオランダ人を探すことにする。
 オランダ人…どこに居るんだろう。さまよえるオランダ人(←偏見)。でも、その辺にはさまよっていない。そこで、私が通う英会話教室をあたることにした。一対一のレッスン形式なのだが、インストラクターは母国語が英語ではない人も沢山いる。私としては、その辺りが面白いと思っている。
 いくつかの教室があるのだが、私が普段通っている職場と地元近くの教室には、オランダ人が居ない。私が行ける範囲では、2か所にのみオランダ人が居ることをつきとめた。

 そこで、その一人であるオランダ人英語インストラクターを予約し、この歌詞と調べ上げた単語を持ってレッスンに臨んだ。インストラクターに事情を説明すると、大爆笑された。そりゃ、英会話のレッスンにオランダ語を持ちこむとは、ヘンテコな生徒としか言いようがない。
 もちろん、本来は英語のレッスンである。基本的に英語で会話しながら、オランダ語の歌詞を解読する。かなり大変なことになったが、とにかく40分ほどのレッスンで、歌詞のだいたいの所は分かったような気がする。その内容については、次の記事にて。

(つづく)

The Night They Drove Old Dixie Down2009/09/03 14:15

 "The Night They Drove Old Dixie Down" に関しては、一連の南北戦争関連記事の最後の方で取り上げようかとも思っていたのだが、これほどの有名で、内容的にも話題豊富な曲ともなると、なかなかそうは行きそうにない。

 この曲は言うまでもなく、ザ・バンドの代表曲の一つだろう。1968年発表のアルバム[The Band]に収録されている。作ったのは、ロビー・ロバートソン。彼に娘が出来て間もなく、赤ん坊を起こさないために静に作曲する必要に迫られ、この美しいメロディが出来たという。
 歌詞に関しては、メンバー唯一のアメリカ人にして、アーカンソー州出身のリヴォン・ヘルムの父親がある時、ロビーに冗談めかして「南部は、またいつか立ちあがるぞ」と言ったことが、きっかけになった。
 今更、言うまでもないが南北戦争の歌である。

 ここで注目するのは、第一ヴァースである。
 オリジナル・アルバムのブックレットには歌詞がついていないため、正確にはなんと歌っているのか、人によって解釈がことなり、前記事で紹介したように、微妙に異なるカヴァー・バージョンがうまれた。

 私が持っている、アルバム[The Band] の日本語解説では、このように歌詞を書き起こしている。

Virgil Caine is the name / and I serve on the Danville train / Till Stormvill's calvary came / And tore up the tracks again /
In the winter of '65 / We were hungry just barely alive / By May the 10th / But Richmond had fell / It's a time I remember so well...


 ヴァージル・ケインが働いていていた、ダンヴィル鉄道をずたずたにするのは、"Stormvill's calvary" となっている。「ストームヴィル」は町の名前っぽい言葉だが、"Calvary" とはキリスト受難の地、もしくは磔刑像、受難そのものなどを指す言葉で、ここでは意味をなさない。邦訳も、「ストームヴィルのカルヴァリーがやってきて」と、苦しいことになっている。

 1971年のライブアルバム、[Rock of Ages] の日本語解説になると、さすがにCalvary は "cavalry"(騎兵)になった。しかし、Stormvill's はそのままで、ストーンマン少将は登場しない。  面白いことに、By May the 10th / But Richmond had fell のところは、I made an atempt / But Richmond had fell となっている。邦訳も「ぼくは試みたが、リッチモンドは倒れてしまった」と、これまたおかしなことになってしまっている。
 南北戦争の事を念頭に置けば、リッチモンドが南部連合の首都であり、 そのリッチモンド陥落を示唆していることは明確だ。
 この "atempt" という表記は、日本独自らしく、アメリカの解説サイトなどで、「日本の軽率な間違い解釈」などと言われていた。

 私が持っている、書き起こし歌詞のあるアルバムとしては、最後に来るのが「ザ・ラスト・ワルツ」の、4枚組バージョンで、たしか2002年に発売さえたのだと思う。  ここでは、"Stoneman's cavalry" ストーンマン少将の騎兵が登場。さらに、By May the 10th / But Richmond had fell に戻っている。おそらく、これが決定版と考えて良いだろう。リヴォンの歌い方も、これが最もしっくりくる。



 アメリカなどの解説サイトでも問題になっているのは、やはり日付の問題だ。
 リッチモンドが陥落するのは正確には、1865年4月3日。4月9日に南軍のリーが、北軍のグラントに投降して、南北の戦闘はひとまず終結したことになっている。
 ロビー・ロバートソンが、この史実を踏まえていたのかどうか、とにかく日付に関しては、「5月10日までにリッチモンドは陥落してしまった」となっている。
 これに関しては二つの解釈が成り立つだろう。

 ひとつは、ロビーの勘違い。南部連合国大統領デイヴィスは、リッチモンド陥落後、他に逃れたため、逮捕されたのは翌月の5月10日だったのだ。このため、ロビーがデイヴィスの逮捕と、リッチモンド陥落を混同した可能性がある。
 もう一つの解釈は、意図的というもの。1865年は、リンカーンが4月14日に銃撃され、翌15日に死亡している。つまり、この時期はいろいろ立て込んでいるのである。ダンヴィル鉄道の一職員に過ぎず、飢えをしのいで冬を過ごしたヴァージル・ケインには、正確な情報が手に入らず、リッチモンド陥落の正確な日も分かっていないとしたら、とりあえず彼が「By May the 10th / 5月10までには」と曖昧表現するのも不自然ではないだろう。

 ともあれ、ジョーン・バエズなどが「書いてなかったから」と言って、異なる歌詞を用いた理由のひとつは、もしかしたらこの日付問題を避ける為だったかもしれない。

 面白いことに、曖昧どころか、「本当に日付が誤っている」カバーが存在する。ジェリー・ガルシアによる、このバージョン。(ピアノは、ニッキー・ホプキンス!)



 さすが、ジェリー・ガルシア。ものすごく味わい深く、格好良い。だが、ばっちり ON May 10th と歌っており、これだと「5月10日にリッチモンドが陥落した」になってしまう。

 まぁ、結局はあまり細部にこだわりすぎる必要もないし、この曲の素晴らしさは細部を超越している。それでも、歴史好きとしては、ちょっと気になる曲ではある。

誰の騎兵?どんな騎兵?2009/08/30 22:35

 ザ・バンドの曲の中でも、"The Night They Drove Old Dixie Down" は名曲中の名曲で、私も大好きだ。
 これだけの名曲ともなると、カバーも多い。

 まずは、ジョニー・キャッシュ。さすがにコメントしがたいほど格好良い。



 ブラック・クロウズや、オールマン・ブラザーズ・バンドのバージョンも有名だが、アレンジや歌詞など、ほぼオリジナルを踏襲している。オリジナル通り演奏すれば、そのまんま格好良い名曲。

 注目は、ジョーン・バエズ。説得力のある素晴らしい歌唱なのだが、一部歌詞がオリジナルとは違うのだ。



 オリジナルの「Til Stoneman's cavalry came ストーンマンの騎兵がやってきて」というところは、むろん実在の北軍少将ジョージ・ストーンマンを示唆している。
 しかし、ジョーン・バエズはここを「so much cavalry 大勢の騎兵が」に変えて歌っている。他のところでも、「ある日女房が呼んだ」が「言った」に変わっている。この変更は小さなものだが、なぜ固有名詞のストーンマンを、「大勢の」にしたのだろう?ロバート・E・リーはそのままなんだけど。「破壊者」として名指しするのが気の毒になったのだろうか。

 さらに、後年のライブバージョンなどでは、こんなケースもある。



 黒紋付き…?
 たしかに、「Stonewall's cavalry」に聞こえる。と、すればストーンウォール・ジャクソンの事だろう。
 …と、なるとおかしなことになる。ダンヴィル鉄道が破壊される段階では、すでにストーンウオォール・ジャクソンは戦死している。しかも、彼は南軍の将軍だ。リッチモンドの補給線であるダンヴィル鉄道を、南軍の騎兵が破壊するというのは、どうもおかしい。北軍に利用されないように破壊したという意味だろうか?

 歌詞に固執してアレコレ言うのは、ロック楽曲においては野暮というものだ。しかしこの曲ばかりは、史実に即したディテールが、強い説得力になっていると思う。
 アーチストたちは、そこまで歌詞にこだわっていないかもしれないし、私もそれで構わない…いや、でも、ジョーン・バエズだしな…。彼女に会う事ができたら、ぜひともこの点を訊いてみたい。…ディラン様がどうこうって話は、べつにいいから。

ケリーズ・フォード2009/08/18 23:07

 ポトマック軍の指揮をバーンサイドから引き継いだフッカーが、取り組んだ軍の再編成の中に、騎兵のそれも含まれていた。北軍にとって、南軍のジェブ・スチュアート騎兵隊の活躍は、実にいまいましい存在であり、それを凌駕するものを編成しなければ、士気にかかわったのである。
 フッカーは、ジョージ・ストーンマン少将を指揮官とし、ポトマック軍の騎兵隊をひとまとめにして、スチュアートのそれに対抗させようとした。

 フッカーがポトマック軍司令官になってから約二ヶ月後、1863年3月。相変わらず、南北両軍はラパハノック川を隔てて対峙していた。
 フッカーは軍の再編成にいそしんでいることを把握したリーは、自軍をいくつかに割いて、多方面に派遣するなど、かなり危ない橋を渡っていた。同時に、スチュアートの騎兵隊をラパハノック川沿いに展開して、決して北軍を油断させず、この牽制のために、フッカーは思い切った行動には出ないでいた。

 フィッツフュー・リーは、ロバート・E・リーの甥であり、スチュアートの部下として活躍していた(もっとも、スチュアートとの関係は上下のそれではなく、友人同士なのだが)。彼が率いる一団が、ラパハノック川北西付近で活動しているのに対し、北軍は対抗措置を取りかねていた。
 しかし、フッカーの我慢にも限界がある。3月17日、北軍ウィリアム・アヴェレール准将は2100の騎兵を率いて、北軍の拠点ファルマスから30キロほど北に川をさかのぼったケリーズ・フォード(ケリーの浅瀬)で、800のフィッツヒュー・リーの騎兵に攻撃を仕掛けた。
 騎兵によるこれほどの規模の戦闘は、南北戦争はじまって以来だった。しかし、その数の違いは顕著で、リーの南軍はかなり苦戦した。

 スチュアートも、右腕であるジョン・ペラム(フレデリックスバーグで活躍した24歳の若者)と共にリーの苦戦を確認したが、彼も後方に戦場を抱えており、ケリーズ・フォードにとどまるわけにもいかず、ペラムをリーに合流させた。
 並はずれた勇気で名を知られたペラムは、前線で指揮を続けたが、頭部に銃弾を受けて負傷。そのまま、後方へと護送された。
 同日の夕方までには、アヴェレールはもうひと押しというところまで来ていたようだ。しかし、リーの「兵を引いて隠しては、奇襲する」という作戦にてこずったうえ、スチュアートの存在感におびえ、付近を走る鉄道の音が、南軍の歩兵本体の襲来を予感させるなどしたため、北軍は兵を引いてしまった。

 結局、ケリーズ・フォード付近の南軍騎兵を駆逐することではできず、北軍は目的を達することはなかった
 しかし、南軍の損失は大きかった。死傷者133以外にも、馬を失うなど、騎兵の損害は高くつく。

 護送されたペラムだったが、意識を取り戻すことはなく、そのまま当日内に息を引き取った。若く、輝くがごとき勇気と活躍で、ロバート・E・リーにも称賛されたペラムの死は、スチュアートにとって精神的打撃となり、それは南軍の打撃でもあった。
 スチュアートは、妊娠中だった妻に手紙で、生まれてくる子にはジョン・ペラムと名をつけると、書き送った。生まれたのは女子だったので、ヴァージニア・ペラム・スチュアートと名づけられることになる。


ジョン・ペラム。勇敢なるペラム "The Gallant Pelham" で記憶される

 ところで、冒頭に登場した、ジョージ・ストーンマンという名前で、ピンときた音楽ファンは、かなりのザ・バンド好きだろう。"The night they drove old Dixie down" に登場する、「ストーンマンの騎兵」のストーンマン,その人である。
 もっとも、ストーンマンが、バージル・ケインの勤めていたダンヴィル鉄道を破壊するのは、ずいぶん後のことだが。

マッドマーチ2009/07/28 23:14

 マッドクラッチ MUDCRUTCH ― 「泥の松葉杖」というのは変なバンド名だが、「泥の行進 MUD MARCH 」というのも、変な言葉だと思う。でも、双方とも実際にあったのだから、仕方がない。

 1862年12月、バーンサイド率いる北軍がフレデリックスバーグで悲惨な目に遭った後、南北両軍はラパハノック川を挟んで対峙した。
 バーサイドは余りにも酷過ぎた結果を挽回しようと、あまり時間をおかずに行動に出た。1863年1月、バーンサイドは軍勢をラパハノック川沿いに上流へと向かわせた。そのうえでラパハノック川を渡り、フレデリックスバーグに布陣する南軍に、側面攻撃を仕掛けるのが、その意図だった。要するに奇襲なのだから、これは素早く行われなければならない。

 時は冬のさなか。南部連合の地とは言え、ヴァージニア州北部で降るとしたら雪のはずだった。ところが、バーンサイドの作戦開始日である1月20日は温かく、雨が多いに降り始めた。車やら、大砲やら、とにかくズルズルと引きずって行く軍勢の移動に、雨は悪条件であることは言うまでもない。地面がひどくぬかるみ、兵士たちは前進どころではなくなった。
 北軍は泥の中で悪戦苦闘、なぜか飲酒も許可されたが、あまり効果があるとは思えない。南軍の斥候が、この泥の中で苦しむ北軍の兵士たちに出くわしたというのだから、すでに奇襲もなにもあったものではない。
 結局、この作戦行動は単に「泥の行進」という、どうしようもない名前を奉られたのみの、無駄骨に終わった。バーンサイドは、全軍をもと居た場所 ― フレデックスバーグのほぼ対岸,ファルマスに戻した。

 戦下手が明白である上に、天にまで見放される。よほどバーンサイドはラパハノック軍のような大軍の司令官には、向いていなかったのだろう。しかもやることの結果がいちいち悲惨なのだから、士気に影響するのは当然だった。
 さらに悪いことに、部下の将官たちもバーンサイドを非難して憚らず、抗命行動まで起こったのだから、軍隊としては「終わっている」。そのバーンサイド攻撃の急先鋒が、ポトマック・第一軍の将官ジョゼフ・フッカーである。彼はかなり強烈な表現で、いかに上司バーンサイドが司令官として不適格かを、リンカーンに訴えた。むろん、バーンサイドも黙ってはおらず、リンカーンへフッカーに関する低評価を書き送った。

 結局、リンカーンはどうしたか。バーンサイドをポトマック軍司令官から解任し、東部戦線へと転じさせた。フレデリックスバーグの敗戦や泥の行進だけならまだしも、軍という組織の大事な指揮系統が崩壊しつつあったのでは、もうバーンサイドに挽回の余地はなかった。
 後釜には、フッカーが据えられた。席次順のせいかもしれない。しかし、軍隊おいて上官の命令に抗する ― 組織にとっての致命傷になるようなタイプの男が、上に行けるとは意外な思いがする。この場合のリンカーンは、「文句を言うのなら、お前やってみろ」という気分だったのかも知れない。

 ポトマック軍司令官に就任したフッカーがまず取りかかったのが、軍組織の立て直しである。その崩壊に一役買ったのだから、当然だろう。さらに、士気の鼓舞にもつとめた。あだ名が「ファイティング・ジョー」だったぐらいだから、フッカー本人の士気も大したものだった。彼は名言を吐いている。

 God have mercy on General Lee, for I will have none.
 神のご加護がリー将軍にあらんことを。私はそのようなものは持ち合わせていないので。


 ところで。
 バーンサイドとフッカーは、性格的には対照的だったが、妙な共通点がある。その名前が、一般名詞化したことだ。
 バーンサイドは、彼の頬髭の形に名を残したのに対し、フッカーはある職業の女性を表す俗語 hooker の語源になったというのである(辞書を見てね)。これは、彼がファルマスの野営地で彼女たちに営業することを許可したことに由来するという。
 この話は広く信じられているようだが、実は hooker の俗語的な用法は、フッカーの名が知られるようになる前から存在していたらしい。フッカーにしてみれば迷惑な話だ。しかし、この伝説が信じられるという事実が、彼の業績に対する冷徹な評価になっているのかも知れない。

 私はhookerという言葉が現在でも俗語的な意味で用いられているのかどうか、皆目見当がつかなかった。おいそれと英会話の先生に訊くわけにもいかない。
 しかしある日、某スーパースターの元妻に関するゴシップ(もしくは、根拠のない中傷)に、この意味でのhookerが使われているのを目にして、大いに驚いた。

フレデリックスバーグ2009/07/11 00:32

 リーの率いる、南軍による北部侵攻作戦,メリーランド作戦が、アンティータムの戦いで挫折した後、逆に北軍が南部連合への侵攻作戦を実行に移し、バーンサイド率いるポトマック軍が南下した。
 最初の大規模な戦闘は、ヴァージニア州フレデリックスバーグで行われたのだが、その地理的理由は、地図を見れば一目瞭然だ。



 北部連邦首都ワシントンと、南部連合首都リッチモンドを結ぶ最短経路の、ほぼ中間にフレデリックスバーグは位置するのである。さらに、南北に流れるラパハノック川の西岸に町があり、背後にはメアリー高地という丘が控えていた。

 1862年11月17日、12万の北軍が川の対岸に到着した直後に、バーンサイドが何らかの無理な手を使ってでも、軍を渡河させて、フレデリックスバーグに突入してしまえば、この町の名が歴史に残ることもなかったかもしれない。
 この時、フレデリックスバーグの南軍は、せいぜい500ほどしか居なかったのだから、占領は造作もなかっただろう。
 しかし、バーンサイドは渡河のため橋の構築に手間取り、その完成を悠長に待った。橋の遅れ自体は後方支援の責任だったが、現場責任者のバーンサイドはグズグズするべきではなかった。

 北軍が川を渡りあぐねている間に、リー以下、ロングストリート,ストーンウォール・ジャクソン,スチュアートなど、歴戦の名将たちが70000の兵を率いてフレデリクスバーグに集結してしまった(それでも、数の上で南軍は北軍の6割にも満たないのだが)。

 12月13日の明け方、バーンサイドは苦心惨澹の末、いよいよ渡河と総攻撃を命じた。

 戦場は大雑把に言って南北に分かれていた。
 フレデリックスバーグの市街地から南に5キロほど下流の西岸には、スローンウォール・ジャクソンと、ジェブ・スチュアートの騎兵が配された。数の上では北軍が圧倒していたが、北軍フランクリンの進軍は勢いを欠いていた。たちまち、スチュアートにやられてしまい、退却を余儀なくされた。
 特に、スチュアートの部下で、わずか24歳の若い少佐ジョン・ペラムの砲撃は目覚ましい成果を上げ、リーの印象にも残った。このペラムというのは、3月9日の、スチュアートの記事に登場した、ペラムである。

 一方、フレデリックスバーグ市街背後のメアリー高地では、まさにどうしようもない戦闘が展開されていた。渡河した北軍はせっせとメアリー高地に向かって進撃し、ばたばたと丘からの砲撃に倒された。
 正規の軍隊による戦闘などと呼べる代物ではなかった。自殺行為だの、虐殺だの屠殺だのと記述されるほど、北軍の進軍は馬鹿げていた。そのことにバーンサイドが気付いて退却するにも、驚異的な時間がかかった。

 指令部のリーは、名言を吐いた。
 「戦争がかようにむごたらしいのは、いいことだ。そうでないと、我々は戦争が好きになり過ぎるかもしれない。」
 これは、この状況で、しかも高潔な人格で知られたリーが言ったからこそ、意味がある。リーは余りにも愚かなこの状況を、当事者でありながら正確に把握していた。

 日暮れになって、やっとバーンサイドは戦闘停止と撤退を決めた。それに際して、バーンサイドはリーに死傷者の回収を願い出た。「リーは寛大に受け入れた」と表現されるのだが、リーにしてみればこの状況で寛大も何もあったものではないだろう。
 死傷者、北軍は12000(死傷率1割!)、南軍は5000だった。

髭に名を残す2009/06/20 23:36

 東部戦線では、1862年9月のアンティータムでの大規模な戦闘後、仕切り直しという段階に来ていた。
 アンティータムでは大敗してメリーランド作戦が失敗に帰しても、リーは決定的な打撃を受けることなくヴァージニア州に兵を引き、体制の立て直しにかかった。同時に、スチュアートは相変わらず騎兵を率いて最前線を駆け回って牽制し、ストーンウォール・ジャクソンは、シェナンドア渓谷で転戦し、北軍の背後を脅かそうとしていた。

 一方、北軍では大きな人事異動があった。例のマクレランがとうとう東部戦線北軍の主力であるラパハノック軍の司令官から解任され、後継者にアンブローズ・バーンサイドが決まった。
 リンカーンと、北軍総大将のハレックは、バーンサイドに戦況の巻き返しを指示し、催促もした。その結果、バーンサイドは「小さな作戦行動を散発させ、リーを撹乱しつつ、南部連合の首都リッチモンドを落とす」という、積極的かつ精緻さを要求される作戦を立て、実行するに至った。
 これが始動するのが1962年11月の事。さらに、歴史的な結果となる、12月のフレデリクスバーグの戦いへと連なることになる。

 気の毒な事に、バーンサイドはラパハノック軍の司令官として、リーと対決するには能力が足りなすぎた。彼は基本的に好人物だったらしく、軍関係や、産業界でも友人が多かった。その結果、順調に陸軍内で昇進し、気づけば立場的にはマクラレンの次席に居たのである。
 実は、アンティータムの戦いで既に、バーンサイドは失点を重ねていた。将軍としては状況判断が甘く、柔軟性に欠け、敗戦の被害を増幅する傾向にあったのだ。
 それでもリンカーンにしてみれば、席次を守ってマクレランの後任を決めるのは、当然だった。

 バーンサイドは、そのいかつい容姿が有名だった。いかにも強そうに見えるが、それが大軍を指揮する将軍として強いかどうかは別問題だ。エレガントな容姿をしているリーなどと比べると、映画に出てくる名将と、負ける敵方の典型のようにさえ見える。
 一番特徴的なのは、その髭。口ひげともみあげがつながるまで生やし、顎髭はきれに剃る。あまりにも個性的なスタイルなので、この髭の形は、バーンサイドの名前を入れ替えて、「サイドバーンズ」という名前になった。辞書にも載っている。名前をそのままにした「バーンサイズ」でも、同じ意味らしい。



 ここで、デュアン・オールマンが登場する。
 彼の伝記、[SKYDOG] によると、1969年セッションマンとしてアラバマ州のマッスル・ショールズ・スタジオで仕事をしていたデュアン・オールマンのいでたちは、かなりショッキングだったらしい。

 ベーシストのデイヴィッド・フッドはこう回想する。「彼は私が最初に会ったヒッピーだった。我々は髪を短くして、ボタンダウンを着ていた。音楽業界で働いていても、見た目は至って普通だった。そこへ、まったく突然に、彼が出現した。ベルボトム・パンツに、長い髪、ザン切りのサイドバーンズ、花柄のシャツだのなんだの。デュアンはまるで、異星人のようだった。

 ちなみに、そんなデュアンにつけられたあだ名が、"dog" ― 最初は単に、容姿から dog だけだった。さらにウィルソン・ピケットが、"sky man" と名付ける。これは、デュアンが始終ドラッグでハイになっているのに驚いて、(アメリカ南部はまだそれほどドラッグが浸透していなかった)つけた名前だ。
 つまり、有名な "SKYDOG" は、この二つをつなげたもので、彼のスライドに象徴される、ギター・プレイとは、直接関係ないらしい。

涙の道2009/06/03 22:40

 「ツアーに出ている間、マイクが僕にくれた、デュアン・オールマンの伝記を読んでいたんだ。」

 去年10月、トム・ペティがインタビューでそう言ったのを読むや否や、さっそく同じ本を購入した。買っただけで満足し、ずっと放ってあったのだが、今日やっと読み始めた。
 オールマン兄弟についてはアルバムは聞くけど、あまり知識がなかったので、いちいち驚いたり感心したりしている。オールマン兄弟が二人とも左利ききだったとは、知らなかった(ギターは右利き仕様で弾いている)。
 一番驚いたのは、読み始めて間もなく、兄弟の父親が撃ち殺されてしまったことだ。

 トム・ペティのロング・インタビュー本「カンバセーション・ウィズ・トム・ペティ」の冒頭もショッキングだった。

 インタビュアー:「あなたのお祖父さんが、フロリダへ向かおうとする自分と家族を阻もうとした男を、ジョージアで殺したという噂は本当ですか?」

 トムが言うには、本当らしい。彼も40歳を過ぎてから知ったとのこと。
 ジョージア州の木材切り出し場で働いていた白人男性のペティ氏は、職場の料理人をしていたチェロキー族の女性と結婚し、フロリダ州へ移住しようとした。しかし、白人男性がチェロキー族の女性を連れていることで、旅の途上数人の男との暴力沙汰になったと言うのだ。

 チェロキー族は北米大陸南東部に多く居住していた先住民族で、アメリカにやってきたヨーロッパ出身勢力との、壮絶な戦いを繰り広げた。
 18世紀、ジョージア州で金が発見されると、チェロキー達はその土地を取り上げられ、抵抗も虚しく、はるか西,現在のオクラホマ州への移住を強いられた。1838年の強制移住では、およそ15000人のチェロキーたちのうち、4000人が旅の途上で病で亡くなったと言う。
 この悲劇の旅路はのちに「涙の道」と呼ばれるようになり、チェロキー以外の部族に課せられた強制移住の悲劇にも、この言葉が使われている。
 チェロキーの人々は旅のあいだ、「アメイジング・グレイス Amazing Grace」を歌い、悲劇に見舞われた自らを鼓舞した。この曲はもちろん、キリスト教の賛美歌だが、強制移住よりも前にチェロキーたちの言葉に訳されて、愛唱されていたのだ。
 今では、「涙の道」を語るとき、「アメイジング・グレイス」は欠かせない存在になっている。

 私にとっての「アメイジング・グレイス」は、ロッド・スチュワートや、ザ・バーズのライブ・バージョンなどもあるが、一番はこれ。1988年、当時まだ収監されていたネルソン・マンデラの70歳の誕生日に捧げられたコンサートでの、ジェシー・ノーマンである。



 ノーマンは、ポップ・ロック・アーチストや、コメディアン、俳優などが続々と現れたステージの、最後に登場した。この、圧倒的な存在感。音楽ジャンルが、やれロックだ、ポップスだ、クラシックだと言うのが、ばかばかしくなるほどの、凄まじい歌唱力。
 最後の歌詞は、「自由よ…」に変えてある。

 チェロキーの一部には、私有地を持っていたごく少数の者や、兵士の強制力から逃れた者たちがおり、ジョージア州にとどまることになった。トム・ペティの祖母がそういったチェロキー族の子孫かどうかについては、「カントム」では言及されていない。
 「テンチ家の兄弟」でも言及しているが、ベンモント・テンチの曽祖父もジョージア州(ニューナン)から、南北戦争後にフロリダ州ゲインズヴィルに移住してきた。
 ペティ家とテンチ家のルーツ。その境遇はかなり異なるようだが、奇妙な共通点があるところに、興味をひかれる。

バイユーの砦2009/05/27 23:04

 オリジナルはザ・バーズ、マッドクラッチもカバーした "Lover of the Bayou" に関して、私はある誤解をしていた。
 「バイユー」という日本語表記を見て、それは「バイユーのつづれ織り Tapisserie de Bayeux」のバイユーの事だと思っていたのだ。

 歌に歌われた Bayou は、アメリカ南部ミシシッピ川などの流域に広がる、川,湖,沼,湿地のような入り江の名称である。そりゃあ、バーズならノルマンディーにコンクェストよりも、ミシシッピ・デルタにケイジャンだろう…。

 これはマッドクラッチの映像。さすがにマイクとベンモントの超然とした名手ぶりが光る。そしてトムさん。目一杯おしゃれして格好良い。やっぱり、女優はこうでなきゃね。



 ミシシッピ州ヴィックスバーグは、アメリカ南部連合にとってミシシッピ川に残された最後の砦であり、ミシシッピ川におけるもっとも重要で守りの固い場所でもあった。北部連合としては、ここを落とさないうちはけっして西部戦線を優位に運ぶことはできないのである。

 当初、リンカーンは海軍でもってヴィックスバーグを落とせると楽観していた。デイヴィッド・ファラガットが既にミシシッピ川河口のニューオーリンズを落としていたからである。
 しかし、ヴィックスバーグは川湾曲部を臨み、支流との合流点にも近い断崖に位置しており、川から海軍でもって落とすのは不可能だった。海軍が陸上拠点を落とすことなど無理なことなど、普通わかりそうなものだが、当時のアメリカにおける海軍の認識というのはその程度のものだった。地理的条件が海軍王国イギリスとは違いすぎるので、それも致し方がない。

 ともあれ、北軍は川からヴィックスバーグを落とすことをあきらめた。そして1862年11月よりユリシーズ・グラントがミシシッピ川方面の北軍担当司令官となり、本格的な陸上からの攻撃が始まった
 しかし、グラントにとってヴィックスバーグ攻略の前半は失敗の連続だった。ただでさえ困難な軍事行動なのに、リンカーンのきめ細やかな政治的配慮のせいで、やや指揮系統が混乱気味だったこともある。そして、もっとも北軍を悩ましたのはミシシッピ川流域のバイユーという地形である。
 当時、バイユーがどのように位置しているのかさえも地図に明記されておらず、グラントはまず調査隊を派遣してバイユー把握に努めなければならなかった。

 1863年に入ってもヴィックスバーグに指一本触れられず、グラントは作戦の転換を考え始めていた。
 どう作戦変更をするにしろ、北軍はバイユーを克服しなければならなかった。この試みに、グラントは時間をかけて臨む覚悟だった。

テンチ家の兄弟(その7)2009/05/09 23:38

 昨日の記事には、写真を一枚、追加している。

 1862年秋、南部連合軍を率いるブラッグはケンタッキー作戦を成果の得られぬまま終了し、その長大な移動は単なる徒労となった。
 以前からブラッグは評判の良くない将軍だったため、彼を贔屓にする南部連合大統領デイヴィスも、人事的に何もしないわけないは行かなかった。そこで、5月の半島作戦で負傷し、東部戦線司令官をリーに取って代われていたJ.E.ジョンストンを、西部戦線の司令官に据えた。テネシーに展開するブラッグと、ミシシッピー州に展開するペンパートンの上にジョンストンを置いたわけだが、そもそもデイヴィスとジョンストンの人間関係が悪く、この組織はうまく機能しなかった。
 結局は、引き続きテネシー軍をブラッグが指揮することに変わらなかったのである。

 ケンタッキー州への展開をあきらめたブラッグは、テネシー州都ナッシュヴィル奪還を意図して、チャタヌーガから北西に進軍した。目指すは、ストーンズ川東の町マーフリーズボロ。小さな町だが、ナッシュヴィルを落とすための要衝で、これまでにも何回か小競り合いがあった。1862年7月には、テンチ家の兄弟が所属するジョージア州第一騎兵隊がここでの戦闘に参加し、ルービン・モンモランシー・テンチが負傷している。

 今回の作戦では、ブラッグが自ら南軍37000を率いて1862年12月にマーフリーズボロに入った。
 一方、ローズクランツ(ジェイムズ・テンチが戦死した、ヴァージニア作戦の北軍司令官の一人)率いる北軍43000は、ナッシュヴィルからクリスマス明けに南下し、ストーンズ川の西岸に布陣。大晦日を目の前にして、両軍はストーンズ川を挟んで対峙した。
 12月29日まで、静かな状態が続いた。両軍は1km以内の位置で布陣していたが、お互いの音楽隊が演奏の交換を行って、兵士たちの心を慰めた。北軍は「ヤンキードゥードゥル(日本では『アルプス一万尺』で知られている曲)」、南軍は「ディキシー」などを演奏する。そして両軍が「ホーム・スィート・ホーム(埴生の宿)」をともに演奏し、兵士たちも共に歌った。

 ブラッグとローズクランツは、奇しくも同日に攻撃を設定していた。違っていたのは、攻撃開始時刻。ブラッグの南軍の方が、1時間早かった。1962年の最後の日の朝6時。南軍が北進を開始し、まず北軍の右翼を圧倒し、北軍の陣形は一気に圧縮された形になった。
 しかし、1863年の初日には南軍の猛攻が止み、北軍は立て直しに成功。1月2日には逆に北軍がストーンズ川を渡って南軍の右翼を攻撃。こうなると、南軍は挟み撃ちに遭ってしまう。ブラッグはこの作戦の限界を見出し、1月2日の夜には南への撤退を始めた。
 先制攻撃を受けて危機に瀕していた北軍にとって、南軍の撤退は幸運なことではあったが、これを追撃する余力もなかった。
 死傷者は南北あわせて25000。南北戦争全般において、もっとも死傷率の高い戦いだった。南軍側では町の名前を取って「マーフリーズボロの戦い」,北軍側では川の名前を取って「ストーンズリバーの戦い」と呼ぶ。
 結局、この戦い自体は引き分け。南軍にとっては、ナッシュヴィル奪還に失敗したことになった。

 テンチ家の兄弟が所属するジョージア州第一騎兵隊は、この戦いに参加したことが記録されている(ただし、南軍ではホイーラーの騎兵隊が北軍の背後を回って後方撹乱作戦を行っていたが、これに参加していたわけではなさそうだ)。
 両軍がともに音楽を奏でたエピソードで思い出したのが、ジョン・ウォルター・テンチ(ベンモントの曽祖父)が戦場にフィドルを持って行った話。1862年という年が終わろうとする戦場で23歳のジョン・テンチも、音楽隊の演奏や、兵士たちの歌声とセッションを楽しんだのだろうか。

(つづく)