リーの完璧な戦い2009/10/31 01:15

 1863年5月1日、フッカーが樹海の中 ― チャンセラーズビル付近に北軍の主力を集結させた時、彼の思い描いた展開は、おおよそ次のようなものだったろう。

1.ラパハノック川東岸には、北軍のセジウィックが3万の兵とともに残っており、対岸フレデリックスバーグを拠点にしていたリーの南軍は、ここを空にすることができない。

2.しかし、北軍の主力13万はフレデリックスバーグの西チャンセラーズビルにあり、リーはただでさえ少ない兵力(6万)を分割して、チャンセラーズビルの北軍に立ち向かわねばならない。

3.両軍の南方には、北軍騎兵のストーンマンが撹乱行動を起こして、北軍が南部連合の首都リッチモンドを脅かそうとしているように見せかける。

4.リーは3.故に南に気を取られつつ、チャンセラーズビルの北軍に攻撃をしかけるが、北軍は圧倒的な数で押し返す。

5.時を同じくして、セジウィックがフレデリックスバーグを攻撃。南軍は、東西双方から挟み撃ちに遭う。

6.リッチモンド方面も気がかりな南軍は、一気に崩れて退却する。

 1.と2.は、ほぼフッカーの思い通りに進行した。確かに、リーはデュバル・アーリー少将に1万2000を預けてフレデリックスバーグを守らせ、自分は残りを率いてチャンセラーズビルに向かった。
 しかし。3.のストーンマンに関してはかなり早いうちに南軍のスチュアートがフェイクであることを見抜いており、リーにほぼ無視されたと言って良い。しかも、見破られていることにフッカーが気付いていなかった。
 リーは4.のとおりにチャンセラーズビルの北軍に攻撃を仕掛けるのだが、その方法はフッカーの想像したものではなかった。リーは、さらに兵力を分割したのである。これは天才のなせる技で、真似をしない方が良い。分割された第二軍2万5000は、ストーンウォール・ジャクソン中将に率いられて、一路チャンセラーズビルの西側に迂回を始めた。時に5月2日。

 樹海の中とはいえ、ジャクソンの行軍は北軍に見つかり、小さな戦闘が起きた。しかし、リーが圧倒的に少ない兵力でもって挟撃をたくらもうなどとは、フッカーは夢にも思わなかっただろう。ジャクソンの行軍はストーンマンの撹乱作戦に釣り出され、南方リッチモンドに向かう物だと判断されたため、ほぼ放ったらかしになった。
 しかも、例によってスチュアートの騎兵が北側でバタバタと活動し、北軍の注意をそらすことに成功していた。
 リーからは「迂回して西側から北軍を攻撃」程度の簡素な指示しか受けていなかったジャクソンだが、この天才的な勘を持つ現場指揮官は、実に的確な位置で東へと進路をかえた。5月2日の夕暮れを時である。
 北軍の最西端に位置していた兵士たちは、突然予想外の西側から南軍が雪崩を打って襲ってきたため、瞬く間に潰走した。4000名以上は、全くの無抵抗のまま捕虜になるという凄まじさだった。
 ジャクソンは日没を迎えてもなお、前進を試みようとしていた。彼は自ら偵察に出たのだが、これが運命の分かれ道になった。偵察からの帰り道、暗い森の中でジャクソンは味方からの誤射で負傷した。彼は護送され、指揮は配下のA.P.ヒル少将に引き継がれたが、そのヒルも負傷したため、スチュアートが指揮を担当することになった。

 翌日5月3日、フッカーの臆病風は吹きっぱなしだった。彼はチャンセラーズビルからさらに更に兵を北東へ引かせたため、森の中の高台も放棄してしまったのだ。これはスチュアート率いる第二軍にとって、恰好の拠点となった。ここに大砲を引き上げ、ものすごい勢いでドカンドカンと「撃ちおろし」まくったのである。
 この砲撃の一弾が、北軍の指令本部にまで飛んできてフッカーが負傷。指揮不能に陥った。何を思ったか、フッカーは指揮権の移譲を拒否した。これは指揮系統の麻痺と言うべきもので、フッカーはただ「撤退」しか指示できなかったに等しい。

 フッカーの思惑その5.にあったように、フレデリックスバーグ方面の残留軍にも動きはあった。北軍のセジウィックは当初の予定通り攻撃を開始したのだ。
 しかし、これも連絡不十分のためか、指揮系統混乱のためか、あまり成果があがらぬままセジウィックが兵を引いてしまったのである。

 結局、5月4日には北軍のほぼすべてが、ラパハノック川東岸へ引きあげ、チャンセラーズビルの戦いは終わった。約6万の南軍に対し、倍以上の13万を擁した北軍が、死傷者1万7000を出して負けるという、かなり酷い結末だった。そのため、この戦いは「リーの完璧な戦い」と称されるようになる。
 しかし、南軍も1万3000の損害を出している。南軍は勝ちはするものの、消耗は激しかった。さらにこのチャンセラーズビルでリーが、そして南部連合国が失った一人の将官の存在もまた、大きなものだった。

チャンセラーズビル2009/10/12 22:12

 久しぶりなので、なぜこの音楽ブログにこのような南北戦争記事が載るのかを、確認しておく。
 トム・ペティ&ザ・ハートブレイカーズのキーボード・プレイヤー,ベンモント・テンチの事を調べているうちに、彼の曾祖父ジョン・ウォルター・テンチは、南部連合国軍少佐として、南北戦争を戦ったことがわかった。
 そこで、テンチ少佐と、その弟たちの戦跡を負うことにしたのだが、どうせなら全く知識のない南北戦争全体を追った方が良さそうだと思い、これらの記事を書くにいたった。
 南北戦争は1861年4月に始まり、1865年4月に終わる。このブログ記事は1862年暮れ,フレデリックスバーグの戦いが終わったところで、止まっていた。PCも帰ってきたので、再開することにする。

  ロバート・E・リー率いる南部連合軍は、年末の大勝利の後、ラパハノック川左岸のフレデリックスバーグに長期駐屯していた。一方、3人目の総司令官となったフッカーは川の右岸に陣取り、北部連邦ポトマック軍の立て直しに時間をかけていた。
 リーは北軍の動きの鈍さを見て、ジェイムズ・ロングストリート中将に15000の軍をを預けて、サウス・カロライナ戦線に派遣した。これは75000の軍勢しかない南軍にとっては、大冒険だった。しかしリーには、地形的に有利な防御に関して、自信があった。

 北軍のフッカーも、さすがにその点は承知しており、豊富な自軍を二手に分けてラパハノック川を渡り、リーをフレデリックスバーグから引き出す策に出た。時に、1863年4月26日。
 まず、フッカーはストーンマンの騎兵を南軍の南に展開させて、北軍の狙いは南であると見せかけた。リーが軍勢を南に動かしたところで、フッカーはその裏をかいて北軍を川の北側で渡河させ、南軍を背後から攻撃するという作戦である。
 ここでもストーンマンは、スチュアートの引き立て役になってしまった。南軍騎兵のスチュアートは、ストーンマン騎兵の動きがフェイクであることを早々に見抜き、リーに逐次報告していたのである。

 リーはフッカーの策にはまることこそ無かったが、南軍の危機には違いない。何せ北軍は13万,南軍は半分以下の6万なのだ。
 ここでのリーの決断は非常に冒険的なものだった。彼はフレデリックスバーグには最低限の守備隊のみを残し、西に展開して北軍と対決する手に出た。

 北軍のフッカーは、「樹海(ワイルダネス)」と呼ばれる森林の中に軍をすすめ、街道辻の小さな集落,チャンセラーズビルに集結させた。この地名はこの戦闘によって非常に有名になるが、地図に名前が載らないくらい、小さなものである。ここでは、赤い四角で示している。



 フッカーは、さらに進んでリーの背後を突かねばならない。ストーンマンのオトリこそ上手く機能しなくても、北軍はすでに大行軍を開始している。5月1日になって行軍のスピードを緩めるのは得策ではなかった。
 しかし、フッカーは就任当時の勢いはどこへやら、この局面で一気に弱気になり、開けた地での会戦を躊躇した。彼は森を防御の盾として、リーを待ち受けることにしたのである。
 圧倒的に数が多いのだから、一気に森を出て南軍に挑んだ方が有利であるはずだが、フッカーはそれをしなかった。

 なぜ、リーが人数的に圧倒的不利な立場にありながら、冒険的な手に出たのか。それは、リーがフッカーという敵司令官の性格を読んだからではないだろうか。リーも戦前は合衆国陸軍に在籍し、フッカーという人を知っていたのかもしれない。または、情報戦略でフッカーの評判や性格をよく把握していたとも、考えられる。
 フッカーは威勢良く、ある意味目立ちたがり屋 - 多少の自意識過剰気味な所がある割りに、いざとなると度胸が据わっていなかった。ストーンマンの小さな作戦が不成功に終わっただけで怖気づいてしまい、手近な盾となる森に籠ってしまう。このような複雑な環境で、リーに戦略を駆使する余地を与えてしまったのは、致命的だった。
 フッカーの度胸のなさは、北軍全体にも簡単に伝わっただろう。最高司令官の弱気が、士気に影響しないはずがない。
 度胸と人望という点で、まずフッカーはリーに勝ちようがなかった。さらにストーンマンとスチュアートの対比のごとく、有能な将官の有無も顕著だった。南軍にはロングストリートが不在だったが、ストーンウォール・ジャクソンが居る。
 チャンセラーズビルの戦いは、5月1日には、すでに決していたのかもしれない。

サミュエル・クレメンズ2009/10/02 23:50

 私のパソコンは、ハードディスクが壊れて修理に出されたきり、返ってこない。現在のPC環境は借り物で、インターネット通信も不便なため、ウェッブサイトの更新も出来ないし、YouTubeで動画を見ることもできない。
 ましてや、TP&HBのSuper Highway購入など夢の様な話。これは中々面倒なシロモノらしいので、私が技術鎖国状態であるうちに、ファンのみなさんに道ならしをしていただき、その後にハイウェイを悠々と行きたいと思う。無論、心情的にはまったく悠々とはしていないのだが…。

 一方、ポメラは当然無事なので、「カントム」の翻訳はじわじわ続けている。もっとも、それをサイトにアップするPCが無い。  エピローグとされた、[Highway Companion] の所を、翻訳している。

 トムさんは、このソロ・アルバムの中でもひときわ "Down South" がお気に入りのようだ。私も大好きな曲で、特にコーラスの歌詞および、メロディの美しさと、ヴァースのナンセンスな感じの対照が良い。トムさん自身で選ぶ好きな曲トップ10に入るそうだ。
 第2ヴァースに、こんな歌詞がある。

Create myself down South / Impress all the women
Pretend I'm Samuel Clemens / Wear seer sucker and white lines


 この箇所について、「カントム」で、トムさんはこうコメントしている。

 笑えるよね。こいつを演奏した時、サミュエル・クレメンズが何者か、知っている人がいなかったんだ。参ったよ(笑)。若い連中ってのには。とにかく、彼はぼくのヒーローの一人なんだ。

 参ったよ、私も知らない。
 しかし、「カントム」には“サミュエル・クレメンズ”のすぐ後に、括弧書きで著者のポール・ゾロがその正体が記している。
 マーク・トウェイン。
 果たして、アメリカ人の間ではマーク・トウェインの本名が、サミュエル・クレメンズであることは常識なのだろうか。夏目金之助のように?(それだって別に日本人の常識ではなかろう。)今、周囲にアメリカ人がいないのでよく解らない。
 [Highway Companion] の日本国内版の対訳には、ちゃんと注として「マーク・トウェインの本名」と書き添えてあった。最近、日本国内版の解説などをほとんど読まないので、まったく知らなかった。

 マーク・トウェイン、本名サミュエル・ラングホーン・クレメンズ。1835年ミズーリ州生まれ。1910年コネチカット州で亡くなったこのアメリカ人作家は、日本においては圧倒的に「トム・ソーヤーの冒険」の作者として有名だ。本国では、「ハックルベリー・フィンの冒険」の方が文学的評価が高く、代表作とされるらしい。
 生まれた家は貧しく、若い頃から印刷工や、ミシシッピ川の水先案内人として働いていた(彼のペンネームは、水先案内人用語に由来している)。

 トウェインが26歳のとき、南北戦争が勃発。彼は南部連合国軍に志願した。
 彼が身を投じたマリオン・レンジャーズは、サウス・カロライナ州マリオンで結成された志願兵集団で、テンチ家の兄弟たち(ベンモント・テンチの曽祖父とその弟二人)が、地元ニューナンでやはり志願兵集団ニューナン・ガーズに身を投じたのと同じようなものだろう。
 マリオン・レンジャーズはサウス・カロライナ騎兵第一連隊に編入され、斥候・偵察に従事した。しかし、マーク・トウェインが実際にその仕事を行ったかというと、甚だ怪しい。彼は2週間で軍隊をやめているのだ。どうやら脱走したらしい。
 トウェインは短期間とはいえ南軍に身を投じ、そして故郷である南部を心から愛していた。それと同時に、黒人差別への強い批判精神を持っていたことは、特に「ハックルベリー・フィンの冒険」に濃厚に現れている。「南部人=黒人差別」という単純な構図では、完全には説明し切れない、複雑さの象徴とも言えるだろう。

 その後、新聞社で記者生活を経て、紀行文などが評判となり、やがて作家としてアメリカに巨大な遺産を残すことになる。
 さらに、いわゆる「ユーモリスト」として有名であると同時に、痛烈な社会に対する批評家でもあった。

 トムさんのヒーローの一人が、マーク・トウェイン。なるほど、と思うと同時に、そういえばトウェインの作品とまともに読んだことがない事に気づいた。昔、子供向きの編集版「トム・ソーヤー」を読んだことはあるが、トウェインの原書訳を読んだことは無い。
 私には、「シェイクスピアは死んでいるか?」などが面白いかもしれない。

愛蘭土紀行2009/09/22 23:41

 私が好きな作家は、司馬遼太郎。これは揺ぎ無い。
 純粋に作家として、好きなのだ。小説はとにかく面白い。
 没後は「司馬史観」なる言葉が使われ、なにやら思想家か何かのような扱いをされているが、私の感覚には馴染まない。某有名アニメ製作会社が、監督と司馬遼太郎の座談会で、意見が合ったということを、ことさら強調していたことがあって、心がしらける思いがした。
 とにかくひたすら、作家としてファンなのだ。あの表現力の凄さ、的確な情報の論述には圧倒され続けている。

 好きな作品トップ3は、「坂の上の雲」,「燃えよ剣」,「項羽と劉邦」。そのほか、戦国もの、幕末物、エッセイなども好きだ。
 (ただし、「竜馬がゆく」だけは読むまいと心に決めている。私はもともと、坂本龍馬という人物が特に好きだというわけではない。むしろ、世間一般に人気がありすぎて、敬遠している向きがある。それでも司馬遼太郎で龍馬を読めば、好きになってしまうに決まっている。それを避けるために、読まないことにしている。)

 中でも、「坂の上の雲」の好きさ加減は尋常ではない。最初に読んだ時は、あまりの面白さに中断できなくなり、仕事中にトイレで読んだりしていた。読了後はあまりの衝撃に、この作品は目に毒だと考え、しばらく読むことを自ら禁じた。
 また読み始めた時は、2度、3度の連続読みなどを繰り返している。
 そこまで偏愛しているので、この秋にドラマ化と聞いて「やめろ念力」を本気で送った。もっとも、私の念力など無力で、ドラマは放映される。怒りが収まらないが、見ないというわけにも行くまい。
 (そもそも、淳が「学問がしとうございます!」なんて熱く語って、両親の前に手をつく訳ないだろ!もっと生ぬる~く行かなきゃ。しかも、お律さんの出番増えてるし。あの控えめな出方が良いのに!!イカン!あのラストシーンとか、淳と会う方向に改竄したら今度こそハレ・クリシュナの大鉄槌を食らわしてやる!児玉さんはもっと小柄でなきゃだめだ!田中と津野田を無視したら呪う!etc...エンドレス)
 
 さて。
 司馬遼太郎の紀行文シリーズに、「街道をゆく」がある。1978年から始まり、司馬遼太郎の死(1996年)まで続いた。
 紀行文といっても、まともな紀行文だと思って読んではいけない。むしろ、「歴史だべり」だと思った方が良い。
 司馬遼太郎が、興味のある国内外各地に出かけて行き、そこで感じた諸々を記したエッセイである。つまり、歴史の話をとめどもなく書き連ねたわけで、歴史好き(私)には面白く、紀行文を期待した人には大はずればかりなのだ。

 シリーズ30巻、31巻は、「愛蘭土紀行」。アイルランドを旅している。面白いのは、アイルランドに行くにあたって、まずはイングランドのロンドンと、リヴァプールを経由していることだ。司馬遼太郎自身が、そういうルートを取りたいと、是非に願った。
 無論、リヴァプールはアイルランドとの交流の地であり、さらに大量のアイルランド移民の町だという要因が強い。同時に、司馬遼太郎は「ビートルズの故郷」と記し、リヴァプールを語る上で重要な要素として取り上げている。



 もっとも、司馬遼太郎自身は音楽に興味がない。確かに、彼の他の作品を読んでいても、音楽に関する記述は非常に少ない。
 彼が賢明なのは、音楽が苦手な以上、ビートルズを聴いてどうこういう批評はしていないところだ。興味もないのに、わかったような顔で音楽を聴き、どうにもならない感想を記録するという愚は、ビートルズ来日の時に複数の文士が犯している。
 司馬遼太郎は、ビートルズの音楽は聴かず、彼らに関する本を読んでいる。1987年ごろの話なので、まだそれらの本の内容も、怪しいところが多かっただろう。「作曲はポール、作詞はジョン」などという、今思うと凄まじい記述など、普通にあった頃ではないだろうか。
 ともあれ、司馬遼太郎は物事の本質を掴み取っている。

 そういう本のなかで、往年のビートルズ四人組の写真をみた。さすがの音痴でさえ、
(ああ、かれらか)
 と、なつかしくおもった。
 どの顔も十代の少年のかがやきと清らかさと利かん気と不敵さを残している。


 これほど、あの四人の容姿を的確に記述した文章があるだろうか。
 特に、「清らかさ」と表現するところが、司馬遼太郎らしい。一種の狂気を含んだような清らかさ ― 「燃えよ剣」に登場する沖田総司などの描かれ方に似ている。

   この紀行文では、ビートルズがアイルランド移民の子孫であることに注目しており、彼らの精神にアイルランドを見出しているのだ。
 「四人中、三人」がアイルランド系としているが、ここはよく解らない。確かに、レノンとマッカートニーはアイルランド系の名前だ。どうやら、あと一人はリンゴを想定しているようだが、ジョージもアイルランド移民の子孫であることが、彼の述懐からも、そして容姿からも読み取ることが出来る。
 司馬遼太郎が参照した本の内容に、少し怪しいところがあるせいで、ところどころ首をかしげるところもあるが、小さいことだ。ビートルズと、司馬遼太郎、もしくは歴史が好きであれば、一読の価値がある。

ダーンがドイツ兵を撃ち殺した夜2009/09/08 21:18

 前記事で紹介した、オランダ版 "The Night They Drove Old Dixie Down" を、紆余曲折の末、なんとか翻訳したので、紹介してみることにする。

Die nacht schoot Daan een Duitser dood (Jacob Klaasse)

オーメ・ダーンがその名前
彼は若くしてベテラン軍人だった
アルファン・チャーム連隊で(敵の)物資を押し返してやっていた
1944年から45年にかけての冬
空腹だったけど、勇気を振り絞って生きていた
5月10日、ダーンおじさんは敵が自分に狙いを定めているのに出くわした

(Chorus)
ダーンがドイツ兵を撃ち殺した夜
彼は敵の頭に飛びかかった
ダーンがドイツ兵を撃ち殺した夜
若者はみんな歌っていた
La, la, la, la, la,...

1週間後、彼はまた家に帰ってきた
ウィルヘルミナは海の向こう
「なぁ、ダーン行こうぜ NSBにノー!を突きつけるんだ」
それからも毎年5月4日になると
ダーンは勲章を持ち出して、こう言った
許すのはそれで良い、でも決して忘れない
若者たちは、死にかけるって事がどんなものか、知るべきなんだ

(Chorus)

ブロンビークでは死に損なった
死はそこらで待ち伏せていたのに
ある日ダーンがドキュメンタリーを見ていたら
ドイツ人が思い出話をしていた
彼の弟は18歳の良い奴ではりきっていた
その弟は、屋根の上でオランダ野郎に撃ち殺されてしまった
それは、アルファン・チャーム連隊だったという
ダーンは英雄的ではあったけど
あの少年兵の名前さえ知らなかったんだ

(Chorus)


 ダーンというのは、どうやらオランダ人の名前らしい。おじさんと呼ばれている、ベテランの(退役という意味ではなく)兵士の話らしい。
 1944年から45年の冬と言えば、第二次世界大戦も大詰めで、飢えに苦しんだわけだ。

 その次に登場する日付5月10日は、年代が遡る。1940年5月10日、ナチス・ドイツはオランダに電撃攻撃を仕掛けた。その結果、オランダは降伏。ナチス・ドイツによるオランダ占領が始まる。
 この電撃作戦の日、ダーンは一人のドイツ兵を殺したのだ。

 オランダが降伏してしまったので、ダーンはひとまず故郷に帰ってくる。
 「海の向こうのウィルヘルミナ」とは、イギリスに亡命した当時の女王のこと。彼女は現女王ベアトリクスの祖母である。
 ダーンは、政治活動で抵抗を試みる。NSBとは、オランダ・ファシスト党のこと。

 戦後、5月4日になると毎年ダーンは勲章を見せて、戦争の話をする。1945年の5月4日ごろは、ナチス・ドイツの終末期。オランダにとって、特別な日なのかどうかは、はっきりしない。

 とにかく、大戦を生き延びたダーンは、戦後のある日、ドキュメンタリーを目にする。  ダーンが殺したドイツ兵の兄が現れて、そのダーンが殺したドイツ兵が、18歳だったことを知る。ダーンは英雄だったけど、その相手の名前さえ知らなかった・・・という、皮肉で締めくくっているようだ。

 ここまで、なんとか翻訳っぽいことをしてみたが、やはりアヤシゲ。おそらく所々間違っているだろう。
 ともあれ、ザ・バンドの南北戦争の曲が、オランダで第二次世界大戦の曲になっているのが、面白かった。
 この曲は、iTunesでも手に入る。演奏そのものも、シンプルでなかなか良いので、おすすめだ。

Die nacht schoot Daan een Duitser dood2009/09/07 22:08

 名曲 "The Night They Drove Old Dixie Down" が好きなので、カバー・バージョンを物色したことがある。
 ある時、英語ではないカバーを発見した。タイトルは、"Die nacht schoot Daan een Duitser dood"

 私はとっさに、ドイツ語だと思った。Die Nacht で、瞬時にそう判断したのだ。ドイツ語なら、「キムラ・サガラ」の辞書がある。なんとか自分で翻訳できないだろうかと、さっそく奮闘したのだが…

Ome Daan is de naam
Jongs af aan oorlogsveteraan
Brigade Alphen en Chaam
Met opdracht terug te slaan
Ja, de winter van 4 op 5, kneep de honger
het lef uit je lijf
De tiende mei hij was erbij
Ome Daan, zag de vijand, legde aan

(Chorus)
Die nacht schoot Daan een Duitser dood
Op zijn kop gesprongen
Die nacht schoot Daan een Duitser dood
Onze jongens die zongen, zo van:
La, La, La, La, La, La,

Een week later zat ie weer thuis
Willemien ver over zee
Daantje, hé kom mee
‘t Verzet, NSB Nee
Nog ieder jaar de vierde mei
Ja dan haalt Daan zijn medailles erbij
Vergeven oké
Maar vergeten dus niet
De jeugd moet weten
Hoe hij haast het leven liet

(Chorus)

Ouwe taaie in Bronbeek
Dood ligt op de loer
Hij ziet een documentaire
Een mof herdenkt zijn broer
Die was net achttien, stoer en strak
Maar een kaaskop schoot ‘m van het dak
Dan het detail: Alphen en Chaem
En Ome Daan zijn heldendaad
Krijgt een jongensnaam

(Chorus)

 どうも様子がおかしい。ドイツ語特有のウムラウト(変母音の記号)がないし、どうもウナギっぽい言葉(aa とか ee とか…)が多すぎる。
 そこで、アーチスト,Jacob Klaasseから確認してみると、どうやらオランダ語らしいのだ。

 方向転換。さっそく最寄の図書館に行き、一冊だけある蘭日辞典を引っ張り出した。そして一つ一つの単語を調べた。
 分かったのは、このカバーの詞はオリジナル英語の翻訳ではないということ。題材は南北戦争ではなく、第二次世界大戦であること。大戦で戦った誰かの話、ドイツ兵が出てくる、どうやらドイツ兵が死ぬらしい…

 これだけの材料で翻訳するのはさすがに無理なので、次にオランダ人を探すことにする。
 オランダ人…どこに居るんだろう。さまよえるオランダ人(←偏見)。でも、その辺にはさまよっていない。そこで、私が通う英会話教室をあたることにした。一対一のレッスン形式なのだが、インストラクターは母国語が英語ではない人も沢山いる。私としては、その辺りが面白いと思っている。
 いくつかの教室があるのだが、私が普段通っている職場と地元近くの教室には、オランダ人が居ない。私が行ける範囲では、2か所にのみオランダ人が居ることをつきとめた。

 そこで、その一人であるオランダ人英語インストラクターを予約し、この歌詞と調べ上げた単語を持ってレッスンに臨んだ。インストラクターに事情を説明すると、大爆笑された。そりゃ、英会話のレッスンにオランダ語を持ちこむとは、ヘンテコな生徒としか言いようがない。
 もちろん、本来は英語のレッスンである。基本的に英語で会話しながら、オランダ語の歌詞を解読する。かなり大変なことになったが、とにかく40分ほどのレッスンで、歌詞のだいたいの所は分かったような気がする。その内容については、次の記事にて。

(つづく)

The Night They Drove Old Dixie Down2009/09/03 14:15

 "The Night They Drove Old Dixie Down" に関しては、一連の南北戦争関連記事の最後の方で取り上げようかとも思っていたのだが、これほどの有名で、内容的にも話題豊富な曲ともなると、なかなかそうは行きそうにない。

 この曲は言うまでもなく、ザ・バンドの代表曲の一つだろう。1968年発表のアルバム[The Band]に収録されている。作ったのは、ロビー・ロバートソン。彼に娘が出来て間もなく、赤ん坊を起こさないために静に作曲する必要に迫られ、この美しいメロディが出来たという。
 歌詞に関しては、メンバー唯一のアメリカ人にして、アーカンソー州出身のリヴォン・ヘルムの父親がある時、ロビーに冗談めかして「南部は、またいつか立ちあがるぞ」と言ったことが、きっかけになった。
 今更、言うまでもないが南北戦争の歌である。

 ここで注目するのは、第一ヴァースである。
 オリジナル・アルバムのブックレットには歌詞がついていないため、正確にはなんと歌っているのか、人によって解釈がことなり、前記事で紹介したように、微妙に異なるカヴァー・バージョンがうまれた。

 私が持っている、アルバム[The Band] の日本語解説では、このように歌詞を書き起こしている。

Virgil Caine is the name / and I serve on the Danville train / Till Stormvill's calvary came / And tore up the tracks again /
In the winter of '65 / We were hungry just barely alive / By May the 10th / But Richmond had fell / It's a time I remember so well...


 ヴァージル・ケインが働いていていた、ダンヴィル鉄道をずたずたにするのは、"Stormvill's calvary" となっている。「ストームヴィル」は町の名前っぽい言葉だが、"Calvary" とはキリスト受難の地、もしくは磔刑像、受難そのものなどを指す言葉で、ここでは意味をなさない。邦訳も、「ストームヴィルのカルヴァリーがやってきて」と、苦しいことになっている。

 1971年のライブアルバム、[Rock of Ages] の日本語解説になると、さすがにCalvary は "cavalry"(騎兵)になった。しかし、Stormvill's はそのままで、ストーンマン少将は登場しない。  面白いことに、By May the 10th / But Richmond had fell のところは、I made an atempt / But Richmond had fell となっている。邦訳も「ぼくは試みたが、リッチモンドは倒れてしまった」と、これまたおかしなことになってしまっている。
 南北戦争の事を念頭に置けば、リッチモンドが南部連合の首都であり、 そのリッチモンド陥落を示唆していることは明確だ。
 この "atempt" という表記は、日本独自らしく、アメリカの解説サイトなどで、「日本の軽率な間違い解釈」などと言われていた。

 私が持っている、書き起こし歌詞のあるアルバムとしては、最後に来るのが「ザ・ラスト・ワルツ」の、4枚組バージョンで、たしか2002年に発売さえたのだと思う。  ここでは、"Stoneman's cavalry" ストーンマン少将の騎兵が登場。さらに、By May the 10th / But Richmond had fell に戻っている。おそらく、これが決定版と考えて良いだろう。リヴォンの歌い方も、これが最もしっくりくる。



 アメリカなどの解説サイトでも問題になっているのは、やはり日付の問題だ。
 リッチモンドが陥落するのは正確には、1865年4月3日。4月9日に南軍のリーが、北軍のグラントに投降して、南北の戦闘はひとまず終結したことになっている。
 ロビー・ロバートソンが、この史実を踏まえていたのかどうか、とにかく日付に関しては、「5月10日までにリッチモンドは陥落してしまった」となっている。
 これに関しては二つの解釈が成り立つだろう。

 ひとつは、ロビーの勘違い。南部連合国大統領デイヴィスは、リッチモンド陥落後、他に逃れたため、逮捕されたのは翌月の5月10日だったのだ。このため、ロビーがデイヴィスの逮捕と、リッチモンド陥落を混同した可能性がある。
 もう一つの解釈は、意図的というもの。1865年は、リンカーンが4月14日に銃撃され、翌15日に死亡している。つまり、この時期はいろいろ立て込んでいるのである。ダンヴィル鉄道の一職員に過ぎず、飢えをしのいで冬を過ごしたヴァージル・ケインには、正確な情報が手に入らず、リッチモンド陥落の正確な日も分かっていないとしたら、とりあえず彼が「By May the 10th / 5月10までには」と曖昧表現するのも不自然ではないだろう。

 ともあれ、ジョーン・バエズなどが「書いてなかったから」と言って、異なる歌詞を用いた理由のひとつは、もしかしたらこの日付問題を避ける為だったかもしれない。

 面白いことに、曖昧どころか、「本当に日付が誤っている」カバーが存在する。ジェリー・ガルシアによる、このバージョン。(ピアノは、ニッキー・ホプキンス!)



 さすが、ジェリー・ガルシア。ものすごく味わい深く、格好良い。だが、ばっちり ON May 10th と歌っており、これだと「5月10日にリッチモンドが陥落した」になってしまう。

 まぁ、結局はあまり細部にこだわりすぎる必要もないし、この曲の素晴らしさは細部を超越している。それでも、歴史好きとしては、ちょっと気になる曲ではある。

誰の騎兵?どんな騎兵?2009/08/30 22:35

 ザ・バンドの曲の中でも、"The Night They Drove Old Dixie Down" は名曲中の名曲で、私も大好きだ。
 これだけの名曲ともなると、カバーも多い。

 まずは、ジョニー・キャッシュ。さすがにコメントしがたいほど格好良い。



 ブラック・クロウズや、オールマン・ブラザーズ・バンドのバージョンも有名だが、アレンジや歌詞など、ほぼオリジナルを踏襲している。オリジナル通り演奏すれば、そのまんま格好良い名曲。

 注目は、ジョーン・バエズ。説得力のある素晴らしい歌唱なのだが、一部歌詞がオリジナルとは違うのだ。



 オリジナルの「Til Stoneman's cavalry came ストーンマンの騎兵がやってきて」というところは、むろん実在の北軍少将ジョージ・ストーンマンを示唆している。
 しかし、ジョーン・バエズはここを「so much cavalry 大勢の騎兵が」に変えて歌っている。他のところでも、「ある日女房が呼んだ」が「言った」に変わっている。この変更は小さなものだが、なぜ固有名詞のストーンマンを、「大勢の」にしたのだろう?ロバート・E・リーはそのままなんだけど。「破壊者」として名指しするのが気の毒になったのだろうか。

 さらに、後年のライブバージョンなどでは、こんなケースもある。



 黒紋付き…?
 たしかに、「Stonewall's cavalry」に聞こえる。と、すればストーンウォール・ジャクソンの事だろう。
 …と、なるとおかしなことになる。ダンヴィル鉄道が破壊される段階では、すでにストーンウオォール・ジャクソンは戦死している。しかも、彼は南軍の将軍だ。リッチモンドの補給線であるダンヴィル鉄道を、南軍の騎兵が破壊するというのは、どうもおかしい。北軍に利用されないように破壊したという意味だろうか?

 歌詞に固執してアレコレ言うのは、ロック楽曲においては野暮というものだ。しかしこの曲ばかりは、史実に即したディテールが、強い説得力になっていると思う。
 アーチストたちは、そこまで歌詞にこだわっていないかもしれないし、私もそれで構わない…いや、でも、ジョーン・バエズだしな…。彼女に会う事ができたら、ぜひともこの点を訊いてみたい。…ディラン様がどうこうって話は、べつにいいから。

ケリーズ・フォード2009/08/18 23:07

 ポトマック軍の指揮をバーンサイドから引き継いだフッカーが、取り組んだ軍の再編成の中に、騎兵のそれも含まれていた。北軍にとって、南軍のジェブ・スチュアート騎兵隊の活躍は、実にいまいましい存在であり、それを凌駕するものを編成しなければ、士気にかかわったのである。
 フッカーは、ジョージ・ストーンマン少将を指揮官とし、ポトマック軍の騎兵隊をひとまとめにして、スチュアートのそれに対抗させようとした。

 フッカーがポトマック軍司令官になってから約二ヶ月後、1863年3月。相変わらず、南北両軍はラパハノック川を隔てて対峙していた。
 フッカーは軍の再編成にいそしんでいることを把握したリーは、自軍をいくつかに割いて、多方面に派遣するなど、かなり危ない橋を渡っていた。同時に、スチュアートの騎兵隊をラパハノック川沿いに展開して、決して北軍を油断させず、この牽制のために、フッカーは思い切った行動には出ないでいた。

 フィッツフュー・リーは、ロバート・E・リーの甥であり、スチュアートの部下として活躍していた(もっとも、スチュアートとの関係は上下のそれではなく、友人同士なのだが)。彼が率いる一団が、ラパハノック川北西付近で活動しているのに対し、北軍は対抗措置を取りかねていた。
 しかし、フッカーの我慢にも限界がある。3月17日、北軍ウィリアム・アヴェレール准将は2100の騎兵を率いて、北軍の拠点ファルマスから30キロほど北に川をさかのぼったケリーズ・フォード(ケリーの浅瀬)で、800のフィッツヒュー・リーの騎兵に攻撃を仕掛けた。
 騎兵によるこれほどの規模の戦闘は、南北戦争はじまって以来だった。しかし、その数の違いは顕著で、リーの南軍はかなり苦戦した。

 スチュアートも、右腕であるジョン・ペラム(フレデリックスバーグで活躍した24歳の若者)と共にリーの苦戦を確認したが、彼も後方に戦場を抱えており、ケリーズ・フォードにとどまるわけにもいかず、ペラムをリーに合流させた。
 並はずれた勇気で名を知られたペラムは、前線で指揮を続けたが、頭部に銃弾を受けて負傷。そのまま、後方へと護送された。
 同日の夕方までには、アヴェレールはもうひと押しというところまで来ていたようだ。しかし、リーの「兵を引いて隠しては、奇襲する」という作戦にてこずったうえ、スチュアートの存在感におびえ、付近を走る鉄道の音が、南軍の歩兵本体の襲来を予感させるなどしたため、北軍は兵を引いてしまった。

 結局、ケリーズ・フォード付近の南軍騎兵を駆逐することではできず、北軍は目的を達することはなかった
 しかし、南軍の損失は大きかった。死傷者133以外にも、馬を失うなど、騎兵の損害は高くつく。

 護送されたペラムだったが、意識を取り戻すことはなく、そのまま当日内に息を引き取った。若く、輝くがごとき勇気と活躍で、ロバート・E・リーにも称賛されたペラムの死は、スチュアートにとって精神的打撃となり、それは南軍の打撃でもあった。
 スチュアートは、妊娠中だった妻に手紙で、生まれてくる子にはジョン・ペラムと名をつけると、書き送った。生まれたのは女子だったので、ヴァージニア・ペラム・スチュアートと名づけられることになる。


ジョン・ペラム。勇敢なるペラム "The Gallant Pelham" で記憶される

 ところで、冒頭に登場した、ジョージ・ストーンマンという名前で、ピンときた音楽ファンは、かなりのザ・バンド好きだろう。"The night they drove old Dixie down" に登場する、「ストーンマンの騎兵」のストーンマン,その人である。
 もっとも、ストーンマンが、バージル・ケインの勤めていたダンヴィル鉄道を破壊するのは、ずいぶん後のことだが。

マッドマーチ2009/07/28 23:14

 マッドクラッチ MUDCRUTCH ― 「泥の松葉杖」というのは変なバンド名だが、「泥の行進 MUD MARCH 」というのも、変な言葉だと思う。でも、双方とも実際にあったのだから、仕方がない。

 1862年12月、バーンサイド率いる北軍がフレデリックスバーグで悲惨な目に遭った後、南北両軍はラパハノック川を挟んで対峙した。
 バーサイドは余りにも酷過ぎた結果を挽回しようと、あまり時間をおかずに行動に出た。1863年1月、バーンサイドは軍勢をラパハノック川沿いに上流へと向かわせた。そのうえでラパハノック川を渡り、フレデリックスバーグに布陣する南軍に、側面攻撃を仕掛けるのが、その意図だった。要するに奇襲なのだから、これは素早く行われなければならない。

 時は冬のさなか。南部連合の地とは言え、ヴァージニア州北部で降るとしたら雪のはずだった。ところが、バーンサイドの作戦開始日である1月20日は温かく、雨が多いに降り始めた。車やら、大砲やら、とにかくズルズルと引きずって行く軍勢の移動に、雨は悪条件であることは言うまでもない。地面がひどくぬかるみ、兵士たちは前進どころではなくなった。
 北軍は泥の中で悪戦苦闘、なぜか飲酒も許可されたが、あまり効果があるとは思えない。南軍の斥候が、この泥の中で苦しむ北軍の兵士たちに出くわしたというのだから、すでに奇襲もなにもあったものではない。
 結局、この作戦行動は単に「泥の行進」という、どうしようもない名前を奉られたのみの、無駄骨に終わった。バーンサイドは、全軍をもと居た場所 ― フレデックスバーグのほぼ対岸,ファルマスに戻した。

 戦下手が明白である上に、天にまで見放される。よほどバーンサイドはラパハノック軍のような大軍の司令官には、向いていなかったのだろう。しかもやることの結果がいちいち悲惨なのだから、士気に影響するのは当然だった。
 さらに悪いことに、部下の将官たちもバーンサイドを非難して憚らず、抗命行動まで起こったのだから、軍隊としては「終わっている」。そのバーンサイド攻撃の急先鋒が、ポトマック・第一軍の将官ジョゼフ・フッカーである。彼はかなり強烈な表現で、いかに上司バーンサイドが司令官として不適格かを、リンカーンに訴えた。むろん、バーンサイドも黙ってはおらず、リンカーンへフッカーに関する低評価を書き送った。

 結局、リンカーンはどうしたか。バーンサイドをポトマック軍司令官から解任し、東部戦線へと転じさせた。フレデリックスバーグの敗戦や泥の行進だけならまだしも、軍という組織の大事な指揮系統が崩壊しつつあったのでは、もうバーンサイドに挽回の余地はなかった。
 後釜には、フッカーが据えられた。席次順のせいかもしれない。しかし、軍隊おいて上官の命令に抗する ― 組織にとっての致命傷になるようなタイプの男が、上に行けるとは意外な思いがする。この場合のリンカーンは、「文句を言うのなら、お前やってみろ」という気分だったのかも知れない。

 ポトマック軍司令官に就任したフッカーがまず取りかかったのが、軍組織の立て直しである。その崩壊に一役買ったのだから、当然だろう。さらに、士気の鼓舞にもつとめた。あだ名が「ファイティング・ジョー」だったぐらいだから、フッカー本人の士気も大したものだった。彼は名言を吐いている。

 God have mercy on General Lee, for I will have none.
 神のご加護がリー将軍にあらんことを。私はそのようなものは持ち合わせていないので。


 ところで。
 バーンサイドとフッカーは、性格的には対照的だったが、妙な共通点がある。その名前が、一般名詞化したことだ。
 バーンサイドは、彼の頬髭の形に名を残したのに対し、フッカーはある職業の女性を表す俗語 hooker の語源になったというのである(辞書を見てね)。これは、彼がファルマスの野営地で彼女たちに営業することを許可したことに由来するという。
 この話は広く信じられているようだが、実は hooker の俗語的な用法は、フッカーの名が知られるようになる前から存在していたらしい。フッカーにしてみれば迷惑な話だ。しかし、この伝説が信じられるという事実が、彼の業績に対する冷徹な評価になっているのかも知れない。

 私はhookerという言葉が現在でも俗語的な意味で用いられているのかどうか、皆目見当がつかなかった。おいそれと英会話の先生に訊くわけにもいかない。
 しかしある日、某スーパースターの元妻に関するゴシップ(もしくは、根拠のない中傷)に、この意味でのhookerが使われているのを目にして、大いに驚いた。