北へ向かう "Rebels"2010/01/24 22:49

 この南北戦争関係の記事の中ではあまり目立つように記述されていないが(つまり、私の興味をひくタイプではないという意味で)、リーが信頼する軍団指揮官の第一には死んだストーンウォール・ジャクソンと、もうひとりジェイムズ・ロングストリートが居た。
 いくらか神秘的な閃きと突進力を持つジャクソンに対し、三歳年上のロングストリートはやや慎重で手堅い軍事行動が多かった。その意味で、リーには双方の能力がバランスよく発揮されることが理想的だった。
 チャンセラーズヴィルでの完全なる南軍の勝利は、リーの意図と、ジャクソンの絶妙な奇襲攻撃、そのあとのダメ押し攻撃の勝利で、ロングストリートの出る幕はなかった。と、言うより彼はその場に居なかった。
 1862年暮れのフレデリックスバーグの戦いでの勝利後、ロングストリートは自分の軍団を率いて西部戦線のサフォーク包囲戦に加わっていたためである。この行動は、ロングストリートの提案を、リーが承認したものだったが、大した成果は上げれなかった。ロングストリートはチャンセラーズヴィル後に、リーの元へ復帰した。

 さて、ロングストリートが戻ってきたところで、リーは軍の再編をしなければならなかった。手持ちの軍勢は70000。それまで、リーが指揮した中では最大規模だった。
 ロングストリートはそのまま第一軍の司令官に、ジャクソンを失った第二軍は二つに分かれ、一方はジャクソン配下のリチャード・イーウェルが、もう一方は第三軍として、やはりジャクソン配下だったA.P.ヒルを中将に格上した上で、担当することになった。

 この第三軍の司令官については、ジェブ・スチュアートが就任するのではないかという噂が一部で流れた。
 チャンセラーズヴィルでジャクソンが倒れ、さらにA.P.ヒルが負傷したとき、第二軍の指揮権は次席のローズ准将が受け持つのが筋だったが、あの緊迫した局面において、それが最善の策だとは、複数の人間が考えなかった。ローズ自身もしかりで、急遽第二軍の指揮を、スチュアートに依頼したのだ。
 スチュアート少将は独立した騎兵師団の指揮官。立場的に多少の融通がきくのは事実だった。指揮権のスチュアートへの移譲は、まだ生きていたジャクソンの意志とも、A.P.ヒルの意志とも、言われている。二人ともスチュアートの親友であり、彼を良く知っているだけにあり得る話だった。ともあれ、この指揮権移譲を、リーは事後承認した。
 チャンセラーズヴルの戦いは、派手な奇襲とともに、徹底した南軍のダメ押し攻撃が功を奏した戦いだったが、このダメ押しを、華々しく指揮したのが、スチュアートだった。
 スチュアートとしてはこの勢いを駆って、自らの中将への昇進と、第二軍指揮官への就任を期待していたらしい。この積極的で明るい性格の男は、それを信じていた節がある。第一、彼はリーに非常に愛されており、この昇進は非現実的ではなかった。

 リーは、スチュアートをもう一人の息子のように愛しており、それゆえにこの若い(30歳)少将の危うさを感じていたのかもしれない。軍の再編成では、手堅くスチュアートよりも先輩の二人が中将として第二軍,第三軍を担当することになった。
 拗ねたスチュアートが辞表でも出すのではと言う噂もあったが、彼もそこまで馬鹿ではなかった。しかも、彼は軍団指揮官になりたいと思う一方で、自分が育て、中世の騎士よろしく華々しく、有能な騎兵隊の指揮官であることにも執着していた。このあたりが、スチュアートの面白いところだ。
 リーは、スチュアートの手元に集め得るだけの騎兵を集中させた。その結果、スチュアートは10000という大騎兵団の指揮官となった。この騎兵の中には、リーの息子ルーニーや、甥フィッツヒューの部隊も含まれており、両者ともスチュアートの親友だった。
 リーのこの配慮に、スチュアートは応えなければならないと、気負っていた。この気負いが、吉と出るか凶と出るか。

 一方、第二軍の指揮官になったリチャード・イーウェル中将。このハゲ頭の男は、身体頑強とは言えなかった。すでに片足を失っていたが、それはネルソン提督の前例もある通り問題ではなく、内蔵に何かの疾患をかかえていたことが、重大だった。
 なんとなく調子が悪いのがこの男の常で、時として本当に伏せってしまうことがあった。このイーウェルの「気分」は、多少その指揮に影響したに違いない。
 彼が積極的なジャクソンの部下だったときは、よくやっていた。イーウェルが指揮官になってからは、その下にデュバル・アーリーというこれまた攻撃的な部下が居た。しかし、ジャクソンはイーウェルの上司であり、アーリーは部下であることが、決定的に違う。このことは、軽視するべきではないだろう。
 偶然だろうか、第三軍の指揮官となったA.P. ヒルも病気持ちだった。この後に控える大会戦に、ヒルの病気も影響したかどうかと言うと、それは詳しい資料を見てみる必要がある。

 ともあれ、チャンセラーズヴィルの勝利後、リーはさらなる北部侵攻を決定した。ゲティスバーグへの道は、北へと延びる。それぞれの指揮官に率いられた南軍の兵士たちは、北へ向かう。時に、1863年6月である。

ウエストポイント2010/01/03 22:14

 シンガーになると決めてそのことだけを考えるようになる前、わたしはウエストポイントへ行きたいと思っていた。ベッドの上で死ぬのではなく、英雄的に戦って死ぬ自分の姿をいつも想像していた。大部隊を率いる将軍になりたくて、どうすればそのすばらしい世界へ行けるのかと考えた。ウエストポイントに入学する方法を尋ねると、父はショックを受けた顔で、わたしの姓には「デ」や「フォン」がついていないこと、ウエストポイントには縁故と適切な身元保証がないと入れないことを教えてくれた。これからは、そういうものがどうすれば手に入るのかをふたりで考えていこうというのが、父が授けてくれた助言だった。
 (ボブ・ディラン自伝 第2章 「失われた土地」より)


 ウエストポイントと言えば、ニューヨーク州のその地名より、アメリカ陸軍士官学校を指し示す言葉として知られている。
 ディランが子供のころのこの挿話は、どこかトンチンカンな味わいがあるが、ウエストポイントに入学するには、貴族的な家系の助けが必要だというのは、多少の真実を含んでいる。特に南北戦争前などは、この傾向が強い。多くのウエストポイントに入る士官候補生たちには身内に社会的地位の高い人がおり、そのコネを必要としていた。
 身分の高いもの(つまり貴族)がその地位にある者の義務(Noblesse Oblige)として、軍隊の指揮官になるという考え方は、ヨーロッパから発して未だに受け継がれている。ジョージア州ニューナンの裕福な大農園主の家に生まれたテンチ家の兄弟(ベンモント・テンチの曾祖父とその弟たち)も、この考え方のもと騎兵として志願したのだろう。

 ともあれ、いよいよ東部戦線はゲティスバーグへ向かうという段階いなって、私は登場人物の多さに困ってしまった。そこで、各将官を整理するために、ウエストポイントの卒業年順に、彼らをならべてみることにした。
 すると、当たり前のことだが名だたる指揮官たちが、ウエストポイントではそれぞれ同級生だったり、年の近い先輩後輩だったしたことがよく分かる。士官候補生のころ、彼らは互いに敵味方に分かれることなど、想像したのだろうか。それを思うと、ゲティスバーグ参加組以外も、リストに入れなければと思うようになった。

1837年卒業
 南軍
  ジュバル・アーリー:チャンセラーズビルでは、フレデイックスバーグの守備。ゲティスバーグでは、ユーエルの配下。
  (ルイス・アーミステッド:アーリーの頭を皿で殴ったため、ウエストポイントは中退。ゲティバーグでは、「ピケットの突撃」で戦死する)

1840年卒業
 南軍
  リチャード・ユーエル:ゲティウバーグ初日、彼のもう一押しの有無が大きなポイントになる。

1842年卒業
 南軍
  ジェイムズ・ロングストリート:リーの片腕。ゲティスバーグでは議論の的。
  D. H. ヒル:ゲティスバーグの時は、南方予備隊。
  ラファイエット・マクローズ:ゲティスバーグではロングストリートの配下。これまた議論の的。
 北軍
  (ウィリアム・ローズクランズ:西部戦線のため、ゲティスバーグは不参加。ただし、ジェイムズ・テンチが戦士したウエスト・バージニア戦役の指揮官だった人物。)
  (ジョン・ポープ:ゲティスバーグは不参加。マクレランの前任だったが、第二次マナッサスで大敗)

1843年卒業
 北軍
  (ユリシーズ・グラント:西部戦線なので、無論ゲティスバーグは不参加。ただし、最重要人物)

1844年卒業
 北軍
  アルフレッド・プレザントン:騎兵指揮官。スチュアートに対してライバル心あり。

1846年卒業
 南軍
    ジョージ・ピケット:ゲティスバーグにおける象徴的な存在
  (トーマス・(ストーンウォール)ジャクソン:無論、故人のためゲティスバーグは不参加)
 北軍
  (ジョージ・マクラレン:前前任のポトマック軍司令官。ゲティスバーグの時には解任されている)

1847年卒業
 南軍
  A. P. ヒル:ジャクソンの後を継いだが、ゲティスバーグでは体調不良のためか、精彩を欠く。

1853年卒業
 南軍
  ジョン・ベル・フッド:ロングストリートの配下だったが、窮屈を強いられ、不満を残す。
 北軍
  (フィリップ・シェリダン:西部戦線のためゲティスバーグは不参加)

1854年卒業
 南軍
  ジェブ・スチュアート:ご存じ、花咲ける騎兵隊長。

 私の眼にとまったのは、やはりスチュアートの飛びぬけた若さ。彼がいかにリーに(いや、ほかの上官にもだろう)愛された、優秀な騎兵指揮官だったのかがよく分かる。
 まだまだリストアップしきれていないが、とにかくウエストポイントでともに学んだ彼らは、それぞれの軍勢いを率いて、ゲティスバーグに向かうことになる。早々に到着したもの、遅刻したもの、積極果敢に仕掛けたもの、守りに入った者、それらが一点に集中して圧力が掛かり、一気に噴出した ― ゲティスバーグはそんな印象がある。歴史的な意義をゲティスバーグにのみ集中させるのは無理だが、そういうエネルギーの発火点としてのゲティスバーグは、いかにも魅力的だ。

真白き富士の嶺2009/12/20 00:00

 母や伯母の記憶によると、私の祖父は「真白き富士の嶺」という曲が好きで、よく歌っていたと言う。

 1910(明治43)年1月23日、神奈川県,逗子開成中学の生徒12人が、ボートの転覆事故で亡くなった。来年は、この事故からちょうど100年目にあたる。
 「真白き富士の嶺」は、「帰らぬ十二の雄々しきみたまに」とか、「ボートは沈みぬ 千尋の海原」などという歌詞でも分かるとおり、この事故で犠牲になった生徒たちへの鎮魂歌で、曲はアメリカかイギリスの歌謡を拝借しているらしい。
 「真白き富士の嶺」は大正年間にレコード化で広く知られるようになり、さらに昭和初期には映画が作られたため、人気歌謡となった。祖父がこの曲を知っていたのは、このような事情によるらしい。



 祖父は、1歳の時に父親 ― 私の曽祖父,山川有典(ありつね。「ゆうてんさん」とも呼ばれる)―を亡くした。明治期の海軍士官だった有典の早い死については、まず松島という軍艦の説明から始めなければならない。

 幕末の動乱期を経て成立した明治政府は、日本の近代化を進める中で、海軍軍備の充実を急務の一つと位置付けていた。そんな中、1890年進水となったのが、松島・橋立・厳島のいわゆる「三景艦」である。排水量4217トン、最大速力16ノットという巡洋艦だが、その砲は不釣合いなほど大掛かりだったらしい。
 松島は、1894年の日清戦争において伊東祐亨が乗船し、初代連合艦隊旗艦を務めた。黄海海戦(9月17日)では華々しく活躍 ― と言いたいところだが、日本連合艦隊は勝ちこそしたものの、状況はかなりの大混乱で、旗艦松島は前方左舷への砲弾直撃のため大穴を空けて、呉港に戻ってきている。
 日露戦争のころには、早くも松島型は旧式になっていた。1905年5月27日の日本海海戦では、第三艦隊に所属し、ロシア・バルチック艦隊を日本連合艦隊の主力の方へ誘導する役割を担った。司馬遼太郎曰く「老いぼれの送り狼」。

 日露戦争終戦後、松島は姉妹艦の橋立,厳島などと共に一線から退き、練習艦などの役割を得た。
 1908(明治41)年、松島は海軍兵学校第35期卒業の少尉候補生を含めた乗員370名で、香港,シンガポール,マニラ方面への遠洋航海に出た。4月27日、台湾澎湖諸島・馬公に寄港。そして4月30日の午前4時8分、彼女は突如、大爆発を起こして沈没した。
 僚艦から救助が向かったものの、結局乗員370名中、207名(内35名少尉候補生)が死亡した。当時、海軍少佐として松島に乗船していた曽祖父・山川有典は、この死者207名の一人だった。遺体はあがらなかったらしい。
 松島爆沈は火薬庫での爆発が原因となっているが、そもそもなぜ爆発したのかはよく分かっていない。旧日本海軍の軍艦では、このような謎の爆沈事故が数件発生しており、これらについては、吉村昭著の「陸奥爆沈」に詳しい。

 馬公では遺体の収容と共に、船体の一部引き揚げも行われた。松島に使われていた木材で作った花台が、祖父の家にもあったらしい。他にも砲身やスクリュー、ボートなどが引き揚げられた。砲身はその後、松島の慰霊碑になっている。
 一方、ボートは逗子開成中学へ無償で払い下げられた。1910年、12名の生徒が死んだボート事故は、この松島から引き揚げられたボートで起こった。

 「真白き富士の嶺」を愛唱していた祖父は、歌われている中学生たちを真冬の海へと引き込んだボートが、自分の父親とともに馬公の海に眠る松島のものだった事を、知っていたのだろうか。今となっては分からない。

CSS ストーンウォール2009/12/04 23:57

 [ The Live Anthology] デラックス・ボックスが届かない。
 日本国内のCDショップや、通販サイトからの購入は、端から混乱するだろうと見ていたから別に良い。だから複数の入手経路を確保し、到着を待っているのだが、一番当てにしていた経路からさえも届かない。
 あまりジリジリしすぎて発狂しそうなので、気を紛らす必要がある。だから、もはや音楽とは何の関係もない記事を書く。

 南北戦争となると、圧倒的に陸戦の話題になるが、以前デイヴィッド・ファラガットのエピソードを紹介したように、一応海軍も活動していた。
 南部連合の海軍は圧倒的に設備不足であったため、これを補うために当時最新鋭の装備を持った軍艦を、フランスの造船会社に発注した。1863年起工。造船中の船名は「スフィンクス」。南軍はこれCSS Stonewall と命名した。CSSとは、Confederate States Shipの略。Stonewallは、言うまでもなくストーンウォール・ジャクソンから来ている。
 前項で述べたとおり、ジャクソンは1863年5月に亡くなったのだが、それからほぼ時を置かずして、すでに伝説的だった将軍の名を軍艦名としたのだ。
 しかし、南北戦争の情勢は変化しつつあった。ストーンウォール建造中の1863年半ばから、北軍が優位に戦況をすすめるようになり、フランスに対して、ストーンウォールの引き渡しについて差し止めを申し出るにいたった。そこでストーンウォールはいったんデンマークに売却され、それから南部連合国が改めて購入するという手はずになった。
 ストーンウォールは1864年進水。その威力は北軍に恐怖を与えるのに十分であったが、彼女がアメリカに到着するころには戦争そのものが終わり、結局「アメリカ合衆国」が所有することになった。(司馬遼太郎の小説「燃えよ剣」には、「北軍の注文で建造された」とあるが、これは誤りだろう。)

 内戦が終わると、アメリカはストーンウォールを売りに出した。世界でも最新鋭の艦船である。誰が買うのかと思ったら、意外にもとんでもなく遠方からオファーが来た。日本である。徳川幕府が購入した。
 ちょうど、幕末の動乱期である。薩長よりも余程早く海軍に関しては近代的な装備しつつあった幕府だが、ストーンウォールがゆるゆると日本にやってきた1868年には、旧幕府軍と、新政府軍との内乱に突入していた。
 アメリカ人にしてみれば、数年前の自分たちを見る思いだったかもしれない。ともあれ、アメリカはストーンウォールの幕府への引き渡しを見合わせ、日本がどちらの政府に落ち着くかを見極めた。翌1869年、明治政府が新たな政府と認められ、晴れてストーンウォールは引き渡された。
 ここで彼女は改名するのだが、その名前が何やら凄い。甲鉄艦 ― 木造の船体に金属の鉄板を打ち付けたその重厚な構造に由来するのだろう。「ストーンウォール」を訳して「甲鉄艦」とされたかのような誤解もあるようだが、もちろん違う。

 明治政府は成立したものの、旧幕府軍の一部は北へと移動しながら抵抗を続けていた。その最後が、榎本武揚率いる箱館政権である。これは旧幕府の海軍が母体になっていたため、かなりの海軍装備を持っていたが、1869年には旗艦の「開陽」を海難で失っていた。一方、明治政府には最新鋭の甲鉄艦。箱館は戦力的にも圧倒的不利にあった。
 その甲鉄艦が、箱館政権討伐のために北上し、宮城県宮古湾に停泊した。
 そこで箱館側が発案したのが、大胆にも「奇襲で甲鉄艦を強奪してしまおう」という作戦である。自軍の船を相手に接舷させて兵士を送り込み、船ごと分捕ろうという、カリブの海賊ばりのとんでもない話なのだが、19世紀後半にもなって、これを本気でやった。1869年5月6日、宮古湾海戦である。
 箱館側も「開陽」ほどではないものの、そこそこの船「回天」などがあったが、どうもこの作戦はヤケクソにか思えない。ともあれ、フランス人顧問のアドバイスもあり、箱館政権の海軍奉行(大臣にあたる)荒井郁之助と、「回天」艦長・甲賀源吾は、この「甲鉄艦強奪作戦」を実行に移した。

 箱館側の兵士の多くは無論海軍だが、一部陸軍も参加しており、「回天」には、陸軍奉行の土方歳三が乗船、兵士としては陸軍所属の新選組や彰義隊などが加わった。
 作戦決行の朝、政府軍の艦船のほとんどは奇襲など想像だにしておらず、回天は簡単に甲鉄に接近した。しかし、回天は小回りが利かず、接舷どころか、ほぼ頭から突っ込んでしまった。このため回天から甲鉄へ一気に兵士がなだれ込むことができなかった。要するにマゴマゴしているうちに、甲鉄の方の戦闘態勢が整ってしまい、箱館側は一斉射撃を食らうことになった。
 さらに、宮古湾に停泊していた別の新政府軍艦の中では、薩摩の春日がいち早く応戦を開始。短時間で回天は作戦の失敗を悟ることになった。ちなみに、この時の春日には23歳の東郷平八郎(後の連合艦隊司令長官)が乗船していた。
 回天は甲鉄の奪取を諦め、宮古湾を離れ、箱館に戻った。実のところ、トンデモない作戦の割に、回天はよくやった方で、艦長・甲賀の姿は語り草になった。もっとも、彼は回天を箱館まで運ぶことができなかった。戦闘の最中、舵を取りながら複数の銃弾を受けて、死亡したのだ。帰路は海軍奉行の荒井自ら舵を取ったというのだから、その壮絶さが想像される。

 その後、甲鉄艦は箱館戦争に加わり、その終結を見ることになった。1871年には「東(あずま)艦」と名をあらためたが、その後は大きな戦跡を残すことなく1888年に除籍となった。

 南部連合軍の伝説的な将軍の名を与えられ、南北戦争を戦うはずだったストーンウォール。彼女は、はるか極東の島国の小さな湾で、よもやサムライの接舷奪取作戦にさらされようとは、思いもしなかっただろう。しかも、新選組なんてものまで乗り込んでくるのだから、いささかチャンバラ講談じみている。
 
 ところで、回天に乗船した土方歳三は、宮古湾海戦の戦闘の最中は、何をしていたのだろう。彼は陸軍奉行であって、まさか新選組の一員として加わったわけでもあるまい。
 小説、ドラマ的には抜刀して(甲鉄にはガドリング砲が装備されていたらしいのだが…)乗り込みそうだが、事実やいかに。
 しかるべき所で調べれば分かるのだろうが、今はやっぱりTP&HBで頭がいっぱいなので、調べないでいる。

右腕の喪失2009/12/02 23:55

 1863年5月2日の夕刻、ストーンウォール・ジャクソン中将に率いられた南部連合の第二軍は、樹海の中、チャンセラーズビル付近で、大迂回の末の、奇襲攻撃に成功した。北軍は一気に崩れ、北東方面に退却した。

 ジャクソンは勢いがあるうちに、追い打ちをかけ、勝利を確固たるものにすることの重要性を知っていた(実際、南北ともに、何度も勝利を決定づけるチャンスを逸しては、戦争の長期化を招いていたのだ)。
 ジャクソンは自ら、夜襲のための偵察に出た。5月とはいえ、日没後の樹海の中である。ジャクソンの年若い親友であるジェブ・スチュアートは、友人が将軍らしく見えるようにと美しい軍服を進呈し、ジャクソンはそれを着用していたのだが、この状況では視覚的な役には立たなかった。
 偵察から戻ってきたジャクソンの一行を、ノースカロライナ騎兵連隊は見分けることができず、さらに戦闘のせいで気が昂ぶっていた彼らは、自軍の将であるジャクソンを、銃撃してしまったのである。

 ジャクソンは右腕に1発、左腕に2発被弾した。状況がやや混乱し、彼の護送と手当は速やかには行われなかった。ともあれジャクソンは担架で、チャンドラーという農夫の家に担ぎ込まれた。チャンドラーは自宅の提供を申し出たが、自分の怪我をあまり重大なものだとは思っていなかったジャクソンはそれを断わり、農場事務所に滞在した。
 従軍医師のハンター・マクガイアが執刀して、銃弾の摘出手術が行われ、スチュアートからのプレゼントは切り裂かれることになった。さらに、ジャクソンは左腕を切断されたのである。
 経過は一時安定したかにみえたが、間もなく感染症から肺炎を併発した。高熱によって意識が混濁し、そこから回復することなく、5月10日、トーマス・“ストーンウォール”・ジャクソンは絶命した。39歳だった。
 最後の言葉は、マクガイア医師が記録している。

 「川を渡って、木陰で休もう…」 

 ジャクソンの遺体は、リッチモンドに運ばれたのち、ヴァージニア州レキシントンに埋葬された。今日では、「ザ・ストーンウォール・ジャクソン・メモリアル・セメタリー」となっている墓地である。
 彼の切断された左腕は別に、従軍牧師の手によって最後の戦場となった樹海の中、エルウッドというところに埋葬された。

 南北戦争においては、戦闘における戦死者もさることながら、ジャクソンのように負傷後に経過が悪化して亡くなる確率が、非常に高かった。19世紀後半とはいえ、まだまだ衛生観念の足りない時期で、しかも野戦病院ともなると、感染症による死亡の危険が避けられなかったのである。
 ジェイムズ・テンチ(ベンモント・テンチの曾祖父の弟)の、ウェスト・ヴァージニア戦役における死も、負傷した後の経過の悪化によるものだろう。

 ジャクソンの死は、ロバート・E・リー個人にとっては親しい友人の死であり、南部連合軍を率いる将軍としては、もっとも優秀な現場指揮官の喪失だった。ジャクソンの死に対するリーのコメントが、それをよくあらわしている。
 「彼は左腕を失ったが、私は右腕を失った。」
 この「右腕の喪失」は、さらに2ヶ月後、痛い実感としてリーを襲うことになる。
 ジェブ・スチュアートは、ジャクソンの死を「国家の災厄」と表現した。

 ジャクソンの未亡人メアリー・アンナ・ジャクソンは、後年「南部連合国の未亡人」と呼ばれた。それほどに、ジャクソンは南部にとって伝説的な人物になっていたのである。

'Cross the Green Mountain2009/11/01 23:07

 本日付けで、Cool Dry Placeに「カントム」をアップした。エピローグになっている、[Highway Companion] の下り。まだアルバム完成前のインタビューで、最後に話題になっていた「まだ出来上がっていないもう一曲」は、"Saving Grace" のことだろう。
 ちょっとノッてベース・ソロを「やらかした」と思い、そっと謝るジェフ・リンが可笑しい。でも、トムさんはそんな謝罪、受け入れないもんね。
 今、翻訳を始めた個所は、トムさんが二番目の奥さんと出会うところ。正直言って、イラつく。翻訳していてムカムカしてくるのはなぜだ。その話、長いの?!おかしいな、トムさんがいくら「ジョージ大好き愛してる」とか、「ボブとは仲良しなんだ」とか、「マイクはいつも超最高!」とか繰り返しても、全然イラつかないんだけどな。不思議だ。

 チャンセラーズビルの戦いに関する記事に頂いたコメントで、[Gods and Generals] という映画を教えてもらった。2003年の映画で、約4時間という大作である。原作はジェフリー・シャーラ。ストーンウォール・ジャクソンを中心とした、南北戦争映画である。
 その評価は様々だが、戦闘シーンの充実ぶりは高評価だ。CGなどは多用せず、南北戦争「保存会」の人々の協力を得ている。

 この映画のエンドロールには、ボブ・ディランの曲が流れるらしい(私は見ていない)。およそ7分間のこれまた大作。"'Cross the Green Mountain" は、当初この映画のサウンドトラックでしか聞けなかったのだが、2008年に発表されたBootleg Series Vol.8, [Tell tale Signs] に収録された。
 今まで気づかなかったのだが、この曲にはベンモント・テンチがオルガンで参加していた。おやまぁ。あいかわらず神出鬼没のベンモントである。
 この曲には、ディランが映画のワンシーンに入り込んだようなビデオがある。どうやら、ディランは戦死した兵士の身内という役どころらしい。

'Cross the Green Mountain

 やっと、あの「ロン毛ディラン様」の謎が解けた。世界のディラン・ファンに衝撃を与えた、ロン毛ヅラ姿。



 つまり、ビデオでの姿をライブでも見せくれた、ってことらしい。TP&HBが "Don't come around here no more" をライブで演奏する時、トムさんがトップハット(シルクハット)が被っていたのと同じと考えれば良いだろう。

リーの完璧な戦い2009/10/31 01:15

 1863年5月1日、フッカーが樹海の中 ― チャンセラーズビル付近に北軍の主力を集結させた時、彼の思い描いた展開は、おおよそ次のようなものだったろう。

1.ラパハノック川東岸には、北軍のセジウィックが3万の兵とともに残っており、対岸フレデリックスバーグを拠点にしていたリーの南軍は、ここを空にすることができない。

2.しかし、北軍の主力13万はフレデリックスバーグの西チャンセラーズビルにあり、リーはただでさえ少ない兵力(6万)を分割して、チャンセラーズビルの北軍に立ち向かわねばならない。

3.両軍の南方には、北軍騎兵のストーンマンが撹乱行動を起こして、北軍が南部連合の首都リッチモンドを脅かそうとしているように見せかける。

4.リーは3.故に南に気を取られつつ、チャンセラーズビルの北軍に攻撃をしかけるが、北軍は圧倒的な数で押し返す。

5.時を同じくして、セジウィックがフレデリックスバーグを攻撃。南軍は、東西双方から挟み撃ちに遭う。

6.リッチモンド方面も気がかりな南軍は、一気に崩れて退却する。

 1.と2.は、ほぼフッカーの思い通りに進行した。確かに、リーはデュバル・アーリー少将に1万2000を預けてフレデリックスバーグを守らせ、自分は残りを率いてチャンセラーズビルに向かった。
 しかし。3.のストーンマンに関してはかなり早いうちに南軍のスチュアートがフェイクであることを見抜いており、リーにほぼ無視されたと言って良い。しかも、見破られていることにフッカーが気付いていなかった。
 リーは4.のとおりにチャンセラーズビルの北軍に攻撃を仕掛けるのだが、その方法はフッカーの想像したものではなかった。リーは、さらに兵力を分割したのである。これは天才のなせる技で、真似をしない方が良い。分割された第二軍2万5000は、ストーンウォール・ジャクソン中将に率いられて、一路チャンセラーズビルの西側に迂回を始めた。時に5月2日。

 樹海の中とはいえ、ジャクソンの行軍は北軍に見つかり、小さな戦闘が起きた。しかし、リーが圧倒的に少ない兵力でもって挟撃をたくらもうなどとは、フッカーは夢にも思わなかっただろう。ジャクソンの行軍はストーンマンの撹乱作戦に釣り出され、南方リッチモンドに向かう物だと判断されたため、ほぼ放ったらかしになった。
 しかも、例によってスチュアートの騎兵が北側でバタバタと活動し、北軍の注意をそらすことに成功していた。
 リーからは「迂回して西側から北軍を攻撃」程度の簡素な指示しか受けていなかったジャクソンだが、この天才的な勘を持つ現場指揮官は、実に的確な位置で東へと進路をかえた。5月2日の夕暮れを時である。
 北軍の最西端に位置していた兵士たちは、突然予想外の西側から南軍が雪崩を打って襲ってきたため、瞬く間に潰走した。4000名以上は、全くの無抵抗のまま捕虜になるという凄まじさだった。
 ジャクソンは日没を迎えてもなお、前進を試みようとしていた。彼は自ら偵察に出たのだが、これが運命の分かれ道になった。偵察からの帰り道、暗い森の中でジャクソンは味方からの誤射で負傷した。彼は護送され、指揮は配下のA.P.ヒル少将に引き継がれたが、そのヒルも負傷したため、スチュアートが指揮を担当することになった。

 翌日5月3日、フッカーの臆病風は吹きっぱなしだった。彼はチャンセラーズビルからさらに更に兵を北東へ引かせたため、森の中の高台も放棄してしまったのだ。これはスチュアート率いる第二軍にとって、恰好の拠点となった。ここに大砲を引き上げ、ものすごい勢いでドカンドカンと「撃ちおろし」まくったのである。
 この砲撃の一弾が、北軍の指令本部にまで飛んできてフッカーが負傷。指揮不能に陥った。何を思ったか、フッカーは指揮権の移譲を拒否した。これは指揮系統の麻痺と言うべきもので、フッカーはただ「撤退」しか指示できなかったに等しい。

 フッカーの思惑その5.にあったように、フレデリックスバーグ方面の残留軍にも動きはあった。北軍のセジウィックは当初の予定通り攻撃を開始したのだ。
 しかし、これも連絡不十分のためか、指揮系統混乱のためか、あまり成果があがらぬままセジウィックが兵を引いてしまったのである。

 結局、5月4日には北軍のほぼすべてが、ラパハノック川東岸へ引きあげ、チャンセラーズビルの戦いは終わった。約6万の南軍に対し、倍以上の13万を擁した北軍が、死傷者1万7000を出して負けるという、かなり酷い結末だった。そのため、この戦いは「リーの完璧な戦い」と称されるようになる。
 しかし、南軍も1万3000の損害を出している。南軍は勝ちはするものの、消耗は激しかった。さらにこのチャンセラーズビルでリーが、そして南部連合国が失った一人の将官の存在もまた、大きなものだった。

チャンセラーズビル2009/10/12 22:12

 久しぶりなので、なぜこの音楽ブログにこのような南北戦争記事が載るのかを、確認しておく。
 トム・ペティ&ザ・ハートブレイカーズのキーボード・プレイヤー,ベンモント・テンチの事を調べているうちに、彼の曾祖父ジョン・ウォルター・テンチは、南部連合国軍少佐として、南北戦争を戦ったことがわかった。
 そこで、テンチ少佐と、その弟たちの戦跡を負うことにしたのだが、どうせなら全く知識のない南北戦争全体を追った方が良さそうだと思い、これらの記事を書くにいたった。
 南北戦争は1861年4月に始まり、1865年4月に終わる。このブログ記事は1862年暮れ,フレデリックスバーグの戦いが終わったところで、止まっていた。PCも帰ってきたので、再開することにする。

  ロバート・E・リー率いる南部連合軍は、年末の大勝利の後、ラパハノック川左岸のフレデリックスバーグに長期駐屯していた。一方、3人目の総司令官となったフッカーは川の右岸に陣取り、北部連邦ポトマック軍の立て直しに時間をかけていた。
 リーは北軍の動きの鈍さを見て、ジェイムズ・ロングストリート中将に15000の軍をを預けて、サウス・カロライナ戦線に派遣した。これは75000の軍勢しかない南軍にとっては、大冒険だった。しかしリーには、地形的に有利な防御に関して、自信があった。

 北軍のフッカーも、さすがにその点は承知しており、豊富な自軍を二手に分けてラパハノック川を渡り、リーをフレデリックスバーグから引き出す策に出た。時に、1863年4月26日。
 まず、フッカーはストーンマンの騎兵を南軍の南に展開させて、北軍の狙いは南であると見せかけた。リーが軍勢を南に動かしたところで、フッカーはその裏をかいて北軍を川の北側で渡河させ、南軍を背後から攻撃するという作戦である。
 ここでもストーンマンは、スチュアートの引き立て役になってしまった。南軍騎兵のスチュアートは、ストーンマン騎兵の動きがフェイクであることを早々に見抜き、リーに逐次報告していたのである。

 リーはフッカーの策にはまることこそ無かったが、南軍の危機には違いない。何せ北軍は13万,南軍は半分以下の6万なのだ。
 ここでのリーの決断は非常に冒険的なものだった。彼はフレデリックスバーグには最低限の守備隊のみを残し、西に展開して北軍と対決する手に出た。

 北軍のフッカーは、「樹海(ワイルダネス)」と呼ばれる森林の中に軍をすすめ、街道辻の小さな集落,チャンセラーズビルに集結させた。この地名はこの戦闘によって非常に有名になるが、地図に名前が載らないくらい、小さなものである。ここでは、赤い四角で示している。



 フッカーは、さらに進んでリーの背後を突かねばならない。ストーンマンのオトリこそ上手く機能しなくても、北軍はすでに大行軍を開始している。5月1日になって行軍のスピードを緩めるのは得策ではなかった。
 しかし、フッカーは就任当時の勢いはどこへやら、この局面で一気に弱気になり、開けた地での会戦を躊躇した。彼は森を防御の盾として、リーを待ち受けることにしたのである。
 圧倒的に数が多いのだから、一気に森を出て南軍に挑んだ方が有利であるはずだが、フッカーはそれをしなかった。

 なぜ、リーが人数的に圧倒的不利な立場にありながら、冒険的な手に出たのか。それは、リーがフッカーという敵司令官の性格を読んだからではないだろうか。リーも戦前は合衆国陸軍に在籍し、フッカーという人を知っていたのかもしれない。または、情報戦略でフッカーの評判や性格をよく把握していたとも、考えられる。
 フッカーは威勢良く、ある意味目立ちたがり屋 - 多少の自意識過剰気味な所がある割りに、いざとなると度胸が据わっていなかった。ストーンマンの小さな作戦が不成功に終わっただけで怖気づいてしまい、手近な盾となる森に籠ってしまう。このような複雑な環境で、リーに戦略を駆使する余地を与えてしまったのは、致命的だった。
 フッカーの度胸のなさは、北軍全体にも簡単に伝わっただろう。最高司令官の弱気が、士気に影響しないはずがない。
 度胸と人望という点で、まずフッカーはリーに勝ちようがなかった。さらにストーンマンとスチュアートの対比のごとく、有能な将官の有無も顕著だった。南軍にはロングストリートが不在だったが、ストーンウォール・ジャクソンが居る。
 チャンセラーズビルの戦いは、5月1日には、すでに決していたのかもしれない。

サミュエル・クレメンズ2009/10/02 23:50

 私のパソコンは、ハードディスクが壊れて修理に出されたきり、返ってこない。現在のPC環境は借り物で、インターネット通信も不便なため、ウェッブサイトの更新も出来ないし、YouTubeで動画を見ることもできない。
 ましてや、TP&HBのSuper Highway購入など夢の様な話。これは中々面倒なシロモノらしいので、私が技術鎖国状態であるうちに、ファンのみなさんに道ならしをしていただき、その後にハイウェイを悠々と行きたいと思う。無論、心情的にはまったく悠々とはしていないのだが…。

 一方、ポメラは当然無事なので、「カントム」の翻訳はじわじわ続けている。もっとも、それをサイトにアップするPCが無い。  エピローグとされた、[Highway Companion] の所を、翻訳している。

 トムさんは、このソロ・アルバムの中でもひときわ "Down South" がお気に入りのようだ。私も大好きな曲で、特にコーラスの歌詞および、メロディの美しさと、ヴァースのナンセンスな感じの対照が良い。トムさん自身で選ぶ好きな曲トップ10に入るそうだ。
 第2ヴァースに、こんな歌詞がある。

Create myself down South / Impress all the women
Pretend I'm Samuel Clemens / Wear seer sucker and white lines


 この箇所について、「カントム」で、トムさんはこうコメントしている。

 笑えるよね。こいつを演奏した時、サミュエル・クレメンズが何者か、知っている人がいなかったんだ。参ったよ(笑)。若い連中ってのには。とにかく、彼はぼくのヒーローの一人なんだ。

 参ったよ、私も知らない。
 しかし、「カントム」には“サミュエル・クレメンズ”のすぐ後に、括弧書きで著者のポール・ゾロがその正体が記している。
 マーク・トウェイン。
 果たして、アメリカ人の間ではマーク・トウェインの本名が、サミュエル・クレメンズであることは常識なのだろうか。夏目金之助のように?(それだって別に日本人の常識ではなかろう。)今、周囲にアメリカ人がいないのでよく解らない。
 [Highway Companion] の日本国内版の対訳には、ちゃんと注として「マーク・トウェインの本名」と書き添えてあった。最近、日本国内版の解説などをほとんど読まないので、まったく知らなかった。

 マーク・トウェイン、本名サミュエル・ラングホーン・クレメンズ。1835年ミズーリ州生まれ。1910年コネチカット州で亡くなったこのアメリカ人作家は、日本においては圧倒的に「トム・ソーヤーの冒険」の作者として有名だ。本国では、「ハックルベリー・フィンの冒険」の方が文学的評価が高く、代表作とされるらしい。
 生まれた家は貧しく、若い頃から印刷工や、ミシシッピ川の水先案内人として働いていた(彼のペンネームは、水先案内人用語に由来している)。

 トウェインが26歳のとき、南北戦争が勃発。彼は南部連合国軍に志願した。
 彼が身を投じたマリオン・レンジャーズは、サウス・カロライナ州マリオンで結成された志願兵集団で、テンチ家の兄弟たち(ベンモント・テンチの曽祖父とその弟二人)が、地元ニューナンでやはり志願兵集団ニューナン・ガーズに身を投じたのと同じようなものだろう。
 マリオン・レンジャーズはサウス・カロライナ騎兵第一連隊に編入され、斥候・偵察に従事した。しかし、マーク・トウェインが実際にその仕事を行ったかというと、甚だ怪しい。彼は2週間で軍隊をやめているのだ。どうやら脱走したらしい。
 トウェインは短期間とはいえ南軍に身を投じ、そして故郷である南部を心から愛していた。それと同時に、黒人差別への強い批判精神を持っていたことは、特に「ハックルベリー・フィンの冒険」に濃厚に現れている。「南部人=黒人差別」という単純な構図では、完全には説明し切れない、複雑さの象徴とも言えるだろう。

 その後、新聞社で記者生活を経て、紀行文などが評判となり、やがて作家としてアメリカに巨大な遺産を残すことになる。
 さらに、いわゆる「ユーモリスト」として有名であると同時に、痛烈な社会に対する批評家でもあった。

 トムさんのヒーローの一人が、マーク・トウェイン。なるほど、と思うと同時に、そういえばトウェインの作品とまともに読んだことがない事に気づいた。昔、子供向きの編集版「トム・ソーヤー」を読んだことはあるが、トウェインの原書訳を読んだことは無い。
 私には、「シェイクスピアは死んでいるか?」などが面白いかもしれない。

愛蘭土紀行2009/09/22 23:41

 私が好きな作家は、司馬遼太郎。これは揺ぎ無い。
 純粋に作家として、好きなのだ。小説はとにかく面白い。
 没後は「司馬史観」なる言葉が使われ、なにやら思想家か何かのような扱いをされているが、私の感覚には馴染まない。某有名アニメ製作会社が、監督と司馬遼太郎の座談会で、意見が合ったということを、ことさら強調していたことがあって、心がしらける思いがした。
 とにかくひたすら、作家としてファンなのだ。あの表現力の凄さ、的確な情報の論述には圧倒され続けている。

 好きな作品トップ3は、「坂の上の雲」,「燃えよ剣」,「項羽と劉邦」。そのほか、戦国もの、幕末物、エッセイなども好きだ。
 (ただし、「竜馬がゆく」だけは読むまいと心に決めている。私はもともと、坂本龍馬という人物が特に好きだというわけではない。むしろ、世間一般に人気がありすぎて、敬遠している向きがある。それでも司馬遼太郎で龍馬を読めば、好きになってしまうに決まっている。それを避けるために、読まないことにしている。)

 中でも、「坂の上の雲」の好きさ加減は尋常ではない。最初に読んだ時は、あまりの面白さに中断できなくなり、仕事中にトイレで読んだりしていた。読了後はあまりの衝撃に、この作品は目に毒だと考え、しばらく読むことを自ら禁じた。
 また読み始めた時は、2度、3度の連続読みなどを繰り返している。
 そこまで偏愛しているので、この秋にドラマ化と聞いて「やめろ念力」を本気で送った。もっとも、私の念力など無力で、ドラマは放映される。怒りが収まらないが、見ないというわけにも行くまい。
 (そもそも、淳が「学問がしとうございます!」なんて熱く語って、両親の前に手をつく訳ないだろ!もっと生ぬる~く行かなきゃ。しかも、お律さんの出番増えてるし。あの控えめな出方が良いのに!!イカン!あのラストシーンとか、淳と会う方向に改竄したら今度こそハレ・クリシュナの大鉄槌を食らわしてやる!児玉さんはもっと小柄でなきゃだめだ!田中と津野田を無視したら呪う!etc...エンドレス)
 
 さて。
 司馬遼太郎の紀行文シリーズに、「街道をゆく」がある。1978年から始まり、司馬遼太郎の死(1996年)まで続いた。
 紀行文といっても、まともな紀行文だと思って読んではいけない。むしろ、「歴史だべり」だと思った方が良い。
 司馬遼太郎が、興味のある国内外各地に出かけて行き、そこで感じた諸々を記したエッセイである。つまり、歴史の話をとめどもなく書き連ねたわけで、歴史好き(私)には面白く、紀行文を期待した人には大はずればかりなのだ。

 シリーズ30巻、31巻は、「愛蘭土紀行」。アイルランドを旅している。面白いのは、アイルランドに行くにあたって、まずはイングランドのロンドンと、リヴァプールを経由していることだ。司馬遼太郎自身が、そういうルートを取りたいと、是非に願った。
 無論、リヴァプールはアイルランドとの交流の地であり、さらに大量のアイルランド移民の町だという要因が強い。同時に、司馬遼太郎は「ビートルズの故郷」と記し、リヴァプールを語る上で重要な要素として取り上げている。



 もっとも、司馬遼太郎自身は音楽に興味がない。確かに、彼の他の作品を読んでいても、音楽に関する記述は非常に少ない。
 彼が賢明なのは、音楽が苦手な以上、ビートルズを聴いてどうこういう批評はしていないところだ。興味もないのに、わかったような顔で音楽を聴き、どうにもならない感想を記録するという愚は、ビートルズ来日の時に複数の文士が犯している。
 司馬遼太郎は、ビートルズの音楽は聴かず、彼らに関する本を読んでいる。1987年ごろの話なので、まだそれらの本の内容も、怪しいところが多かっただろう。「作曲はポール、作詞はジョン」などという、今思うと凄まじい記述など、普通にあった頃ではないだろうか。
 ともあれ、司馬遼太郎は物事の本質を掴み取っている。

 そういう本のなかで、往年のビートルズ四人組の写真をみた。さすがの音痴でさえ、
(ああ、かれらか)
 と、なつかしくおもった。
 どの顔も十代の少年のかがやきと清らかさと利かん気と不敵さを残している。


 これほど、あの四人の容姿を的確に記述した文章があるだろうか。
 特に、「清らかさ」と表現するところが、司馬遼太郎らしい。一種の狂気を含んだような清らかさ ― 「燃えよ剣」に登場する沖田総司などの描かれ方に似ている。

   この紀行文では、ビートルズがアイルランド移民の子孫であることに注目しており、彼らの精神にアイルランドを見出しているのだ。
 「四人中、三人」がアイルランド系としているが、ここはよく解らない。確かに、レノンとマッカートニーはアイルランド系の名前だ。どうやら、あと一人はリンゴを想定しているようだが、ジョージもアイルランド移民の子孫であることが、彼の述懐からも、そして容姿からも読み取ることが出来る。
 司馬遼太郎が参照した本の内容に、少し怪しいところがあるせいで、ところどころ首をかしげるところもあるが、小さいことだ。ビートルズと、司馬遼太郎、もしくは歴史が好きであれば、一読の価値がある。