チャタヌーガの戦い(テンチ家の兄弟 その9)2011/01/28 22:40

 1863年9月のチカマウガの戦いによって、ブラッグ率いる南軍は再びテネシー州チャタヌーガに迫り、ローズクランズ率いる北軍を包囲した。もしチャタヌーガが南軍の手に落ちるような事になったら、せっかくヴィックスバーグ陥落によって得た西部戦線における北軍の優位性は、ひどく危ないものになりかねない。
 北部連邦大統領リンカーンは、職業軍人ではなく、要するに戦争については素人で、本職の軍人,将官連中にややうるさがれる傾向もあったが、彼には戦闘より高次元な政治判断として必要な戦略が分かっていた。だからこそ、この局面で大きな決断を行ったのである。
 まず、冬の到来によって膠着状態に入った東部戦線でのリーとの戦いから、フッカー(ゲティスバーグ直前に、ポトマック軍総司令官を退いた男)の軍を引き抜き、チャタヌーガ救援に向かわせた。さらに、ヴィックスバーグを陥落させたユリシーズ・グラントを西部戦線総司令官に任じ、チャタヌーガに派遣した。ローズクランズも、フッカーもグラントのその指揮下に入る。

 10月、グラントがチャタヌーガに来た時、町の守備を担当していたのはジョージ・H・トーマス。チカマウガで北軍の総崩れをぎりぎりの所で防いだ「チカマウガの岩山」である。彼はよく守っていたが、チャタヌーガが背にしているテネシー川の上流を南軍に抑えられていたため、補給路を断たれた状態にあった。
 そこで、グラントはまず川から陸の南軍に攻撃を仕掛けることによって、補給路を確保した。10月27日のことである。

 背後の安全と補給を確保すると、グラント率いる北軍は、かなり有利な状況になった。フッカーの援軍,さらにヴィックスバーグ方面からはグラントの忠実な部下であるシャーマンも到着し、その兵力は70000。一方、南軍はせっかく東部戦線から派遣されたいたロングストリートの15000をノックスヴィル(チャタヌーガから北東に約200km弱)に派遣してしまっており、40000に減っていた。
 ただでさえ兵力・火力に劣る南軍がどうしてこのような兵力の分散を行ったかと言うと、ロングストリートとブラッグの信頼関係のせいだった。あまりにも両者の関係が悪く、この不和のもたらす悪影響を避けるために、ロングストリートは肝心のチャタヌーガから離れていたのである。この時点ですでに、南軍には勝機は無いように思われる。

 11月23日グラントはまず、フッカーとトーマスに南軍包囲軍の中央と左翼に攻撃を仕掛け、双方の高台を占拠した。南軍側に、あまり戦意がなかったようだ。
 今度は25日、シャーマンが南軍のはるか右翼の先から攻撃を仕掛けた。この戦闘はかなりの激戦になったが、結局ミッショナリー・リッジという丘の尾根を北軍が一気に昇りつめて落してしまい、このことで南軍は総崩れになった。ブラッグが居る南軍の総司令部がミッショナリー・リッジにあったため、総大将もろとも捕虜になる危険すらあったのだ。
 南軍はチャタヌーガ攻略どころではなく、再びジョージア州チカマウガ付近まで後退した。これ以降、西部戦線において南軍が北部へ攻勢をかけて進むことはなくなった。



 チャタヌーガの戦いから以降は、ディープ・サウス最大の都市アトランタをめぐる戦闘が西部戦線の主な動きになる。地図で示したように、チャタヌーガはアトランタへの玄関口となった。その距離は200km程度しかない。
 アトランタの南西に示したのが、ニューナン。テンチ家の兄弟の故郷である。おそらくこの町はアトランタと運命を共にするであろう。テンチ家の兄弟が所属するジョージア第一騎兵連隊もチャタヌーガの戦いに参加した。まさに彼らは、ジョージアに帰り、故郷と愛する家族たちを、ヤンキーから守る戦いへと向かう事になる。

チカマウガの戦い2010/12/29 22:28

 ながい睨みあいの合間に騎兵たちのドタバタがあったものの、西部戦線,テネシー方面の南北軍に大きな動きが出たのは、1863年夏のことだ。

 北部連邦リンカーン大統領や、総司令官のハレックが、「早くブラッグ率いる南軍に攻撃しろ」と、催促するのにも疲れ始めた6月、ようやくローズクランズは軍事を南下させ、マーフリーズボロから南軍を撤退せしめた。南軍はまずテネシーとジョージアの州境すぐ北,テネシー川に臨むチャタヌーガまで撤退した、ここは交通の要衝で、戦略的にも重要な場所である。
 せっかくここまで南軍が撤退したのに、どうもローズクランズはやる気に欠けるようで、さらに数週間攻撃を控え、8月になってやっと、南軍に対して北からと、回り込んで西側から攻撃を仕掛けた。西から回ってきた北軍少将の一人が、ジョージ・H・トーマスである。南軍はチャタヌーガを脱し、さらに南下してジョージア州ラファイエットまで下がって行った。
 一見、南軍が負けて退却しているようだが、実はたいした戦闘が行われていない。しかも、南軍にはリッチモンドから派遣されたジョンストンの軍勢と、東部戦線のリーから派遣されたロングストリートの部隊が参加しつつあった。しかも、北軍は南下すればするほど兵站線が長く延び、戦隊もまばらになりつつある。つまり、密集した集中攻撃ができない。状況はやや南軍に有利となりはじめていた。
 特に、西側から南軍に接近していた北軍トーマス少将の部隊は危うい位置に居た。そこで、ブラッグはレオニダス・ポーク少将(ウェストポイントの卒業生だが、その後聖職者になったため、一度退役。南北戦争参加のため、復帰している。ついたあだ名が、「戦う司教(主教)The Fighting Bishop」)に、トーマス部隊の攻撃を命じた。
 しかし、ここで南軍のガンとも言うべき欠点が露呈する。ブラッグというのはどこまでも信頼されていない指揮官らしい。多くの将官がブラッグの指揮を信用しておらず、ポークもその一人だった。結局彼はトーマス部隊の攻撃の好機を捕え損ねた。
 やがて、ローズクランズ率いる北軍も南下し、ジョージア州に入った。かくして、9月19日、ラファイエットの少し北側,チカマウガ川付近で、南北軍が衝突することになった。

 チカマウガからチャタヌーガに至る南北の街道、ラファイエット街道の支配権が、この戦闘の主眼となった。もし街道を南軍に抑え込まれると、北軍は重要拠点であるチャタヌーガへの退路を断たれてしまう。
 まず、戦闘は先行していた騎兵部隊の衝突から始まり、やがて援軍として到着した南軍ロングストリートと、前述ポークの部隊が、北軍マクック,クリッテンデン,トーマスの部隊に集中攻撃を仕掛け、成功した。このため、北軍は総退却を始め、ローズクランズもテネシー州境に程近いロズヴィルまで戻り、さらにチャタヌーガまで逃げ帰った。
 この北軍退却の流れの中、トーマスの部隊がなんとか南軍の猛攻を押しとどめ、北軍の退却を助けた。この防御奮戦により、トーマスには「チカマウガの岩山 Rock of Chickamauga」というあだ名がつけられた。南軍の「ストーンウォール・ジャクソン」と同様の名前だろう。

 東部戦線から援軍に馳せ参じ、やる気満々だったロングストリートは、北軍の撤退を受けて(彼の性格としてはやや例外的に)さらなる追撃を主張した。しかし、ブラッグがそれを渋った。自信がなかったらしい。ロングストリートの言うように、さらに一気呵成に攻撃を仕掛ければ、南軍は要衝チャタヌーガを再度奪還し、北軍をテネシー州の向こうに追いやることもできたかもしれない。
 ともあれ、双方とも16000~18000という大量の死傷者を出したが、この戦い以前とさほど状況はかわらず、勝者の南軍もそれらしい成果を得るには至らなかった。

騎兵たちの活躍(テンチ家の兄弟 その8)2010/12/01 23:04

 テンチ家の兄弟 ― ジョン・ウォルター・テンチ(ベンモントの曾祖父)と、ルービン・モンモランシー・テンチは、ジョージア第一騎兵連隊に所属している。彼らは南部連合テネシー軍として、1862年年末から1863年の正月にかけて、マーフリーズボロ(ストーンリバー)の戦いに参加していた。
 この戦いで南軍は北進を阻まれ、冬の到来とともに西部戦線のテネシー方面はマーフリーズボロを挟んで膠着状態に入った。実に、半年ほども大きな動きがなかったことになる。

 無論、南北両国の首脳陣は戦争の長期化を歓迎せず、現場に対して早く攻撃に移れとせっついていた。
 南軍の方は、まずテネシー軍の司令官であるブラッグに人望が無さ過ぎで、軍組織の指揮系統にやや混乱が生じていた。南部連合大統領デイヴィスは個人的感情としてブラッグに肩入れしていたが、かといってこの膠着状態を放置しておくわけにもいかない。そこで、前年の半島作戦時に負傷して第一線の指揮から遠ざかっていたジョーゼフ・ジョンストンを、事態打開のために派遣した。かといって、別にテネシー軍の司令官が交代するわけでもない。ジョンストンは何をどうすれば良いのか、よく分からない状態に置かれ、この調整は失敗に終わる。
 一方、北部連邦カンバーランド軍の司令官ウィリアム・ローズクランズにも、問題があった。彼はいくらリンカーンや陸軍長官のハレックから、早くテネシー軍を攻撃して南部へ追いやれと催促されても、それをまともに行おうとはしなかったのである。リンカーンにしてみれば、その頃まだグラントがヴィックスバーグを落としておらず、西部戦線における戦場が大きく二つに分かれている状態は、気が気ではなかった。ローズクランズがグズグズしている間に、南部の補給が回復して、ヴィッグスバーグ方面がさらなる苦戦になっては敵わない。
 ローズクランズというのは、1861年南北戦争の初期に、ウェストバージニア方面で、マクレランのもと現場指揮を執った人物である。すなわち、テンチ家の兄弟のひとり、ジェイムズが戦死したときの敵方の将軍なのだ。と、なれば気分として有能かつ勇敢な将軍であってほしいのだが、どうも現実はそれほど上手くいかない。
 ローズクランズは、行動を起こさない理由をアレコレと上に説明しているが、その中の一つは、「自分が動くと、テネシー軍は西に転じて、グラントを脅かすだろう。自分が動かず、テネシー軍を釘付けにしていることによって、間接的にグラントを助けているのだ」という、よく分からないものだった。およそ、軍隊というものが対峙しているとき、眼前の敵の動きをみるや、そっぽへ走り出すような近代戦が存在するだろうか…?

 この体たらくのなか、トップはともかく、双方の騎兵部隊が独自に活発化し始めた。特に南軍は全体に占める騎兵の割合が多い。東部戦線のスチュアートなどもそうだが、南軍の方が北軍よりも騎兵の質,指揮官の質でやや勝っていた。当人たちにもその自覚があるようで、やや無茶な作戦もかなりやらかしている。
 南軍東部戦線で有名な騎兵指揮官は、まずネイサン・ベッドフォード・フォレスト。戦後の行動によって、その評価が難しくなる人物だが、この内戦中は、常に有能な騎兵指揮官だった。そして、ジョゼフ・ウィーラー。彼もスチュアートさながら、敵の背後を回る式の騎兵独特の活動を得意としていた。
 目立たない人物だが、ジョン・ペグラム少将という指揮官も居る。彼は、テンチ家の兄弟が所属するジョージア第一騎兵連隊などを連れて、1863年3月から4月にかけて、ケンタッキー方面への奇襲をかけている。これはあまり念の入った作戦ではなかったらしく、大した成果もないまま、同僚にけなされるなどもしたらしい。
 このケンタッキー方面への奇襲は、さらに6月下旬にかけて断続的に続いた。その中で6月15日にジョン・W・テンチが負傷するという記録がある。彼はその後も軍務につき続けているので、この時の怪我はたいしたものではなかったようだ。

 一方、ぺグラムの行動を味方ながらけなしていた人物のなかには、ジョン・ハント・モーガン准将がいた。彼は1863年7月に、「モーガンの襲撃」と呼ばれる騎兵による冒険的な軍事行動を行った。具体的にはオハイオ川を渡ってインディアナ州や、オハイオ州南部など、北部へと乗り込んだのだ。
 しかし、これは無謀すぎた。モーガンもろとも、北軍の捕虜になるというのが、その結末である。その後、モーガンは捕虜収容所から脱走するという、これまた冒険的な行動を成功させるが、南軍に復帰後も指揮官としての信頼は取り戻せないまま、1864年8月に戦死している。

 前述のジョンストンはアール・ヴァン・ドーン少将率いる騎兵をテネシー軍への援軍として、派遣していた。ドーンは小競り合いに駆けずり回っていたが、まだ南北本体軍が膠着状態にあった1863年5月、テネシー州スプリングヒルに置かれていた作戦本部で、頓死した。
 戦死ではない。ドーンがとある医者の妻と不倫関係になり、その医者によって、射殺されたのである。

 現場責任者はなんだかんだと動きが鈍く、各騎兵隊が独自に駆け回り、ある者は色恋沙汰の末に鉄砲で撃たれる。
 南北戦争の指揮官たちを見ていると、時々これがナポレオン以後の世界 ― 高度に近代化された軍隊の指揮官なのだろうかと、疑いたくなることが、ままある。

幸福な楽天家たち2010/11/21 23:02

 以前にも書いたが、私が一番好きな作家は、司馬遼太郎だ。中でも一番好きな作品は、「坂の上の雲」。だんとつで。
 あれほどの作品をテレビドラマで表現できるはずもなく、去年の第一部の時もずっと文句の言いどおしなのだが、今年も同様だろう。とにかく、文句を言うにはドラマを見ねばならず、見れば必ず不満という、どうも不健康なことになっている。
 ともあれ、また「坂の上の雲」を読んでいる。おそらく、六回目か七回目だろう。私は一日のうちにあまり多くの時間を読書には割いていないが、さすがにこれだけ繰り返し読んでいると、猛烈なスピードになる。今読んでいるところはもう最終巻で、いよいよバルチック艦隊が日本連合艦隊の前にその姿を現したところ。面白い事に、「坂雲」を読むと、このブログに南北戦争の記事を書きたくなる。もっとも、確認作業を疎かにして、なかなかできないでいるが。
 司馬遼太郎の小説を読んでいると ― 「坂の上の雲」は特に ― おそろしく感動的なシーンに何度もでくわす。とにかく文章だけでポロポロ泣けてしまうのだから、著者の文章力には感服しどおしだ。テレビドラマの数少ない良いところと言えば、この司馬遼太郎の文章を多用しているところだ。何といっても、一番良かったのは、第一回の冒頭。

 楽天家たちは、そのような時代人としての体質で、前をのみ見つめながらあるく。のぼっゆく坂の上の青い天にもし一朶の白い雲がかがやいているとすれば、それのみをみつめて坂をのぼってゆくであろう。
(単行本第一巻あとがきより)


 この文章のナレーションを聞いただけで、泣ける。もっと言えば、このドラマで唯一良いところは、この冒頭のナレーションの数分だろう。

 小説の冒頭、秋山好古は無料で学べる学校へ進むべく、故郷松山から大阪へ行き、師範学校(教育大学の前身)を出て、名古屋の小学校へ、教師として赴任する。そこで、同郷の和久正辰という先輩と出会う。この和久がとびきりの親切者で、東京で「ただの学校」 ― 陸軍士官学校が開校し、それを受けてみろと、さらなる学問を志す好古に勧めるというシーンがある。
 この和久と、好古のやりとりのシーンを読むと、私はいつもトム・ぺティと、マイク・キャンベルが初めて出会った時のことを思い出す。この場合、和久がトムで、好古がマイクである。
 好古は、学問はもちろんしたいが、別に軍人になりたいという志は持っていない。だからややぼんやりとしているのだが、和久は陸軍士官学校というアイディアに夢中で、これを実行せずにはいられないのである。まるで、バンドで食うなんて現実味のないことだと、ややぼんやりしているマイクに対し、即座に「バンドに入れ」と決めつけ、その方が金になると強引な説得をするトム。こうして、トムがマイクの人生を決めてしまった(実際、マイクはそう笑いながら説明している)。

 和久は、度外れの親切者だが、ひとつは自分の企画に熱中するたちの人物で、言い出したら目の前の好古を八つ裂きにしてでも陸軍士官学校に押しこんでしまいたいというそれだけの欲望に駆られてしまう。正辰は息を弾ませている。こういう人物にかかると、一つまちがってかれの思う通りにならなければ、こんどは逆に憎さ百倍になってえらく怒りだすということになるであろう。
 好古は、身を任せるしか仕方がない。
(「坂の上の雲」 春や昔)

 別に主人公は最初から「あれをやるぞ!」と、その生き方の最終形を宣言しているわけはない。何に対してどう力が入っているわけではないが、なりゆきに乗った以上、それに対して真摯に、そして楽天的に生きてゆく。その末に生み出される凄まじい結果については、当人は意外と淡白だったりする。
 40年前、トムは恐ろしく楽天的なブロンド青年だったのだろう。青春は往々にして鬱屈したものだが、同時に楽天的なものであり、その調子で前をのみ見つめながら歩くと、TP&HBのようなバンドが出来上がるのかもしれない。
 六十歳になったいまでも、少年のように楽しげに、ただロックをやっているマイクやトムをみると、「楽天家」という意味で、実に似通ったものを感じる。それを表現する文才があると良いのだが、そこは最高の文筆家と、凡人。その間には、バルチック艦隊の大航海なみの距離がある。

ヴィックスバーグ陥落2010/10/24 22:26

 ミシシッピー川沿いの南軍の町ヴィッグスバーグを東方から攻め落とすべく、北軍が渡河を成功させたのは、1863年4月30日。グラントはすぐにヴィックスバーグに向かったわけれはない。
 まずは背後のヴィックスバーグには見向きもせず、北軍はミシシッピー州の州都ジャクソンへ向かった。北部連邦にとって、ミシシッピー川を押さえることもさることながら、ミシシッピー州そのものを完全に掌握することも重要だった。南部連合側としても、テネシー戦線でやや手持無沙汰になってたジョセフ・ジョンストンを派遣したが、時すでに遅し(そもそも軍勢不足でもあった)。5月14には早々にジャクソン陥落となった。

 ただちにグラントは進路を西へと転じ、ヴィックスバーグへ向かった。南軍のヴィックスバーグを守るペンバートン中将は、チャンピオン・ヒルおよび、ビッグ・ブラッグ川で防御しようと努めたが、数に勝る北軍には敵わず、5月中旬にはペンバートンもヴィックスバーグの防御壁内に引っ込み、本格的な籠城戦となった。
 アメリカと言う若い国にとって、本格的な籠城戦の経験はどれほどあるのだろうか。歴史をたどることは即ち戦争をたどることでもあるのだが、その中で籠城戦と言うのは盛り上がるものだ。
 初々しいことに、グラントは5月19日,22日の両日、防御壁の強行突破を試みた。が、無論失敗。町が餓えて干上がるのを待った。南軍のジョンストンもヴィックスバーグ救出に向かわなければならないのだが、その場合は攻撃する北軍をはるかに上回る戦力が必要だ。西部戦線の南軍にそれは望めなかった。
 北軍は、遠くから砲撃も加えたのだが、これが直接的な打撃になったというよりは、心理的な影響が強かったようだ。たしか、大坂冬の陣でも同様のことがあった。

 7月3日、いよいよヴィックスバーグはグラントの北軍に対して、投降を申し出た。そして翌日7月4日、南軍は市街から出て投降した。これは、ゲティスバーグからリーの南軍が撤退したのと、同じ日だった。

 ヴィックスバーグ陥落をもって、北軍は大規模な「アナコンダ作戦」を「整えた」。即ち、モービルやニューオーリンズのような南部の主要な港を北軍海軍が掌握し、さらにミシシッピー側を押さえたことにより、南部の物資や財源となる農作物の運搬,輸出が不能となり、南部の経済活動が著しく停滞することになった。
 腹が減っては戦が出来ぬ。南部は体力を失い、戦争ができる状態ではなくなりつつあった。
 リンカーンにしてみれば、恐ろしいリーの北進を追い払い、南部湾岸とミシシッピー川を掌握した今、戦争終結について、多少楽観的な見通しも立ったであろう。
 南北戦争の凄いところだと思うのだが、まだこの後、2年も ― つまり、それまでかかったのと同じだけの時間が ― 戦争終結にかかってしまうということである。

夜川を下る2010/09/25 21:08

 北軍のグラントが、落そうと躍起になっているヴィックスバーグを地図上で確認すると、以下のようになる。
 (それにしても、アメリカの地名は同じような名前ばかりが散らばっている…)



 大まかに言えば、テネシー州の州大都市メンフィスと、ミシシッピー川河口ニューオーリンズの中間にある、ミシシッピ―川沿いの要衝が、ヴィックスバーグである。
 ニューオーリンズや、モービルと言ったメキシコ湾沿いの主な港は、デイヴィッド・ガラファット("Damn the torpedoes !" の記事参照)らの北軍海軍によって押さえられているし、メンフィスもすでに北軍の手に落ちている。しかしその中間のヴィックスバーグが南軍の支配下にある以上、ミシシッピーを制圧したことにはならなかった。

 ヴィックスバーグは天然の要塞のようなものだった。ミシシッピー川東岸に位置するのだが、川側は切り立った崖になっている。周囲はバイユーと呼ばれる低湿地が点在する。グラントは、まずは町の東側から攻めようとした。しかし、それが南軍の騎兵の働きや、しっかりした防御姿勢で抵抗する南軍相手に成果を上げられなかったのが、1863年初頭までの状況である。
 次にグラントは、町の西側から攻撃をしようと試みた。しかし、地形的には地図もないバイユーの存在に、さらに悩まされることになった。伝染病の蔓延や、悪条件下での長い野営が士気にも影響する。グラントは常に地図制作のために探索を出したり、湾曲するミシシッピー川間に運がを掘削するなどして、士気の維持に心を砕いた。

 春になることには、粘り強いグラントもさすがに、西側からのヴィックスバーグ攻撃に見切りをつけた。やはり彼は、当初の考え通り、東から攻めることにしたのである。あまりのんびりしていると、もう一つの西部戦線であるマーフリーズボロ方面から、南軍の援軍が来てしまう。
 では、43000もの北軍兵士を、どうやってヴィックスバーグの東側に展開するか。まず、北のメンフィス方面に一度兵士を戻して、川を東側へ渡るという方法。安全だが、一見「後退」とも取れるため、北部連邦マスコミや、リンカーンの心証などを考慮に入れると、グラントには好ましくなかった。
 そこでグラントが取った作戦は、「南下して渡河する」というものだった。前述したように、メンフィスは北軍支配下であり、北軍海軍の一部はヴィックスバーグより北側のミシシッピー川に展開していた。
 グラントはこの海軍艦隊を、夜の闇に乗じて、ヴィックスバーグの眼下を通過させ、さらに南側に移動させようとした。その移動先には、川の西側を陸路南下した兵士たちが待っており、ここで彼らを軍艦で大量に渡河させようという作戦である。単純で迅速な作戦だが、ヴィックスバーグからの一斉放火を海軍がまともに浴びれば、大損害以外の何物も得ないという、危険性も持っていた。しかし、そこはグラントという将軍向きの男のこと。やる価値はあるとして、決断は下された。
 グラントは陸路での兵士の南下を気付かれないよう、シャーマンの部隊を、ヴィックスバーグ北方で活動させるなど、下準備もほどこした。そして4月にはこの作戦は実行に移された。北軍陸軍兵士たちは、ミシシッピー側西岸を南下し、ヴィクスバーグより30kmほど南のハード・タイムスで北軍艦隊を待った。

 一方、デイヴィッド・ポーター率いる北軍海軍は、1863年4月16日の夜、一斉にミシシッピー川を下り始めた。さすがに「鞭声粛々」という訳には行かない。ヴィックスバーグの南軍見つかり、砲撃を受けたが、北軍艦隊はそれほど大きな損害を受けることなく、ヴィックスバーグを通過することに成功した。
 ヴィックスバーグの南軍は、大きなチャンスを逃したことになる。夜の軍艦による移動という危険を犯すはずがないと思ったのか、そもそも川側は断崖絶壁であるため、まともな攻撃があるとは思わず、砲の配置が手薄だったのか。それとも、この艦隊の移動の本当の意図(北軍兵士の南での渡河)には全く気付かなかったのか…

 グラントの計画では、ハード・タイムズで渡河しようと考えていたのだが、東岸にある北軍の砦,グランド・ガルフが存外強固な拠点だったため、ここでの渡河を諦め、さらに15kmほど南下したブルーインズバーグで、渡河に成功した。時に、5月1日。
 それまで、ヴィックスバーグを攻めあぐね、あちこちの方向から突っついたり、撃退されたりし続けた北軍は、東側から回り込み、ヴィックスバーグを包囲した。戦況は籠城戦という局面を迎えた。

迷惑な援軍2010/08/15 22:29

 南北戦争は、西部戦線に目を向けることにする。話は、ゲティスバーグの10月前、1862年秋に戻る。
 西部戦線は、広大な地域をその戦闘範囲に含むが、主に二方面の戦いに代表された。ひとつは、テンチ家の兄弟 ― ジョン・ウォルター・テンチ(ベンモントの曽祖父)と、ルービン・モンモランシー・テンチが所属するナッシュビル周辺の戦闘。もう一つは、ミシシッピ川をめぐる戦闘である。

 ミシシッピ川河口に関しては、北軍が既に海軍でもって制圧していた。残すは、ミシシッピ州ヴィックスバーグである。このミシシッピ川東岸の拠点を落とさないことには、北軍が川を制圧したことになならない。しかしこのヴィックスバーグは攻めるのが難しい。
 北軍が攻めあぐねる中、リンカーンがユリシーズ・グラントを部下のシャーマンなどとともに、テネシー方面から派遣したのは、1862年の秋である。
 グラントは、川側からヴィックスバーグを落とすことは困難であると早いうちから判断していた。まずバイユーという地図さえ満足にない低湿地・沼地という悪条件がある。したがって、グラントはヴィックスバーグの北300kmほど離れたテネシー州メンフィス付近から、順々に南軍の拠点を落としながら南下し、ヴィックスバーグへ向かい、消耗線に持ち込む作戦を取った。
 ところがこの作戦は、なかなか上手く作用しなかった。グラントもその部下たちも、南軍の騎兵の活躍 ― ヴァン・ドーンや、ネイサン・ベッドフォード・フォレストらが率いる南軍自慢の騎兵に、手を焼いたのである。しかも北軍の物資は奪われ、焼かれ、電信を寸断され、鉄道の線路まで破壊されてしまった。1862年の12月までの状況はこのようなもので、グラントにとっては芳しい戦況とは言えなかった。

 そんな中、リンカーン大統領のもとに、イリノイ州の下院議員ジョン・A・マクラーナンドが、ある提案を持ち込んだ。マクラーナンドは自ら大規模な旅団を組織し、ヴィックスバーグ攻撃を買って出ようというのである。
 軍隊という厳格な組織にとって、このような私的で、政治的狙いが露骨すぎる自称「援軍」は、明らかに好ましくなかった。そもそも、マクラーナンドはこれまでもやや中途半端な形で戦闘に参加しては、グラントに関してあまり良いコメントをしてこなかった人物である。グラントがそんな援軍を歓迎するはずがなかった。
 リンカーンもそこは理解していたであろうが、彼は徹頭徹尾の政治家だった。大統領は「政治的配慮」というもので、この発言力の強い下院議員の提案を、「喜んで」受け入れたのである。
 グラントにしてみると、迷惑この上ない。リンカーンは司令官はグラントであることを保証してくれているが、グラントはマクラーナンドが到着する前に、シャーマンに対してヴィックスバーグのすぐ北,チカソーの拠点を落とすように命じた。グラントにしては珍しく、やや焦ったようだ。しかしシャーマンのこの軍事行動は成功せず、やがて1863年になるとほぼ同時に、マクラーナンドが到着して、シャーマンの上に立つことになった。
 しかし、誰にも想像できたであろうが、グラントより10歳ほど年長のマクラーナンドは将官としては不向きな男で、グラントの忠実な部下であるシャーマンのみならず、ある意味「部外者」であるはずの、海軍側からも非常に評判が悪かった。彼ら曰く、マクラーナンドの高圧的で尊大な態度の軍事的指示には従えないと言う。
 グラントは、1月下旬にはマクラーナンドから指揮権を取り上げ、自らの配下に置くことによって、事態を収拾した。

 政治的配慮としては、このグラントのマクラーナンドへの対処はかなり大胆なものだった。実際、マクラーナンドはグラントの失脚を画策するなど、グラントにダメージが無かったわけではない。
 しかし、グラントの将官としての強みは、あまり物事に動じないところにあった。自分が非難されようが、戦闘でボロボロに負けて多数の死者を出そうが、彼はどこかとぼけた様にやりすごすのが特技のようだ。南北戦争のように、相手が意地になって馬鹿力を発揮し、しつこい敵の場合、このオタオタせず、我慢強いグラントの態度は、地味ではあるが有効だったのだろう。

The Gettysburg Address2010/07/16 23:59

 ゲティスバーグから撤退した南軍が北軍にそれほど妨害されることもなく、ポトマック川を渡ってバージニアに戻ったことは、リンカーンをおおいに怒らしめた。リーと、彼が率いる南軍を壊滅させることができなかった - チャンスはあったのに ― そのことに、戦闘的意義よりも、政治的な意義で重大なも問題を見出していたからだ。
 当然、北軍を率いたミードはゲティスバーグでの戦勝将軍でもあるにもかかわらず、厳しい非難に晒された。
 北部連邦はこの状況を打開するためにも、1863年秋までポトマック川を渡ってリー率いる南軍に攻撃を仕掛けようと試みた。しかし、故郷に戻り、防御に入ったリーと南軍を破るのは容易なことではなく、結局これといった戦果をあげることなしに、冬を迎えた。小氷期の末期だった当時の寒さは、現在の比ではない。さらに装備の問題もあって当時、冬季に派手な戦闘は基本的に行われなかった。

 ゲティスバーグの戦いから4ヶ月後。ゲティスバーグの戦場近くには、国立戦没者墓地が作られた。その奉献式(開場セレモニーのようなもの)には、大統領リンカーンも招かれた。
 ここでのメイン・スピーチは、エドワード・エヴァレットが行った。彼は下院議員、州知事、イギリス公使、ハーバード大学学長などを務めた人物で、その演説は2時間にも及んだ(当時の演説会ではこの程度の長さは普通だったらしい)。
 一方、リンカーンは客として短いスピーチを依頼され、およそ2分ほどの短いスピーチを、静かな口調で終えた。彼が演説している最中の写真は残っていない。とにかくあっという間に終わった。別に派手な展開は起こらなかった。
 しかし、取材していた複数の新聞記者たちがその短い演説を書き取り、新聞に掲載されたことにより、この簡潔な演説は広く知れ渡るようになった ― すなわち、「人民の、人民による、人民のための政治 government of the people, by the people, for the people 」が特に有名な、ゲティスバーグ演説である。
 極めて短い演説なので、ネットは簡単に全文翻訳で読むことができる。

 時間差で起こったこの演説の劇的な効果を、リンカーンは計算していたのだろうか。おそらく、偶然だろう。
 ともあれ、北軍が華々しく勝ったわけではないものの、後世から見れは一つのターニング・ポイントであり、結局南北戦争全体の規模としては最大級の激戦だったゲティスバーグの戦場跡地で、この演説が行われたという状況の効果は絶大だった。しかも、短く、簡潔な演説であるところも重要だ。その場は墓地の奉献式であり、議会で意地悪な議員たちを相手にしているのではない。多くの「一般人」のために、添え物程度に短く簡潔な演説にしたのが、功を奏した。要するに分かりやすいのである。
 さらに、強い政府を伝統的に嫌うアメリカ国民にとっても、「人民の、人民による、人民のための政治」という表現が、実に巧妙に働いた。実際のリンカーンの大統領としての仕事は、戦時だったためかなりの剛腕ぶりだったが ―
 リンカーンは、この短い演説が及ぼした影響の強さを、あまり知ることはなかっただろう。ゲティスバーグ演説から一年半も経たないうちに、彼は命を落とすことになったのだから。

 終わってみると北軍とミードの詰めの甘さが余韻として残るゲティスバーグだが、結果が南軍の負けだったことには違いない。リンカーンがこの微妙な勝利にある程度の意義を感じていたのと同様に、リーもゲティスバーグの結果がもたらす重大な事態を自覚していた。
 リーはこの敗戦の責任は自分にあるとして、南部連合大統領デイヴィスに、バージニア軍司令官からの辞任を申し出たが、これは受理されなかった。デイヴィスは個人的にもリーがお気に入りだったし、他にリーの後を任せる人材も南軍にはなかった。
 南軍の中では「だれのせいで負けたのか」というやや次元の低い ― 後世の人間にしてみれば、社会・政治状況からして負けてしかるべきなのだから ― 議論がいくらか起こった。その責任論攻撃の一端は、戦場に遅参したスチュアートに向けられた。
 スチュアートは、ストーンウォール・ジャクソンが欠けた後、その穴を埋めるために中将への昇格を期待していたが、ゲティスバーグでその機会を逸した。彼が昇格しなかったことは、事実上の懲罰のように受け取られた。
 それでも南部は、挽回の機会はあると思っていた。まだ完全に打ち負かされたわけではない、大将にはカリスマ性のあるリーが、まだ居てくれている。スチュアートの華々しい騎兵も居る。北軍にはたいした指揮官もいなさそうなので、春が来れば、またやってやれると、南部は信じて、物資不足の冬をやり過ごそうとしていた ―。

ゲティスバーグからの退却2010/06/20 23:20

 Dunlop TVのインタビューにマイクが出演。素敵なたたずまいで話しているのだが、みごとにジョージ好き過ぎ病の症状が出ている。
 いくらでもTP&HBの話は出てくるのだが、南軍をゲティスバーグからバージニアに戻さなければならない。

 1863年7月3日、ピケットの突撃が終わり、南軍のリーは一連の北部侵攻策が、このゲティスバーグでもって終了であることを悟った。北軍93000に対して、南軍71000が激突したゲティスバーグ。結果は、北軍死傷者23000,南軍もほぼ同数。損失率は南軍の方が明らかに高く、さらに損失の補充は圧倒的に北軍が有利だ。
 7月3日の夜、リーは指揮官との会議を持った。意外にも士気はまだ高いままだった。しかし、リーは引き際を見極め、最低限の損失で兵を故郷バージニアに連れて帰らなければならない。
 翌日、7月4日。両軍はほぼ睨みあいに徹し、やがて雨が降り始めた。この雨は、南軍にとって不利だった。南軍はポトマック川を渡って退却しなければならない。リーは、落ち着いて兵をまとめ、夜には順々に退却を始めた。

 一方、北軍のミードは、慎重だった。セオリーとしては、勝っている方が負けて退却する相手を追って、徹底的に叩かなければならないし、勝っている方としてはその方が戦いやすい。しかし、ミードにはゲティスバーグで圧勝したという実感がなく(実際、圧勝ではなかった)、さらに北軍全体が持っている共通認識として守りに入った時のリーの凄まじい強さに対する恐怖があった。
 その頃、ワシントンのリンカーンは電信でゲティスバーグでの、一応の勝利を知らされた。「その頃」というのは、7月4日。アメリカ独立記念日である。しかも1863年独立記念日の場合、リンカーンには二つの戦勝の知らせがもたらされていた。西部戦線のそれはここではさて置き、とにかくリンカーン大統領はゲティスバーグでの勝利に喜んだ。
 さらにリンカーンは、この勝ちに乗じて、ミードがリーを追撃し、撃滅せしめることを期待した。リンカーンは、リーを取り逃がすことが、いかに危険なことか、完全に理解していた。
 ミードにもリーの恐ろしさは分かっていたし、その北軍全体の恐怖は、退却する南軍に対する攻勢に影響した。

 リーは敗軍とはいえ、南軍を順調に退却への道へ導いていた。この時ばかりは、ゲティスバーグに遅れたスチュアートの騎兵たちが偵察に、後方の防御に、小競り合いにと大活躍した。
 しかし、何もかもが順調とはいかない。最大の問題は、ポトマック川である。リンカーンも、退却する南軍をポトマック川渡河の前に捕捉することを期待している。川は、4日に降り始めた雨で増水しており、浅瀬を渡ることが困難だった。さらに、橋,浮橋なども北軍側の先行部隊に破壊されており、南軍はポトマック川で立ち往生した。

 7月13日、リーは覚悟を決めて、北軍を待ち受けた。
 ここで、珍妙なことが起きる。南軍は北軍の攻撃を「待っていた」のだが、北軍は塹壕を作り始めた。負けて退却する南軍を攻撃するのに、何もそこまでと思うのだが、実際北軍はせっせとその作業を始めた。その光景に、リーが逆にいらだってしまった。
 そうこうしているうちに、南軍工作部隊が、新たな舟橋を作り、渡河が可能になった。さらに、川の水かさが減り、所によっては浅瀬を渡れるようになったのだ。
 13日から14日にかけて、南軍はポトマック川を渡った。リーと、南軍は逃げおおせた。

 無論、南軍もゲティスバーグから無傷でバージニアに戻ったわけではないし、各所で起こった小競り合いでの損失も発生した。ゲティスバーグの戦いは北軍の勝利だった。しかし、完勝は逃した。そしてリーを逃した。
 南北戦争は開戦から2年経っていた。明らかに南軍の勢いは限界を迎えていた。ゲティスバーグは、戦争を急速に収束させるチャンスだった。しかし、ミードはリーとともにそれを逃した。
 リンカーンはその優れた頭脳で理解していた。リーを取り逃がしたことは、戦争を倍に引き伸ばしたこということを。
 同時に、ミードはゲティバーグの戦勝将軍でありながら、後世にそれに見合う名誉を得ることはなかった。

ピケッツ・チャージ2010/05/28 23:49

 ゲティスバーグの一日目は、南北両軍とも衝突が始まり、一気に押しきれたであろう南軍がそれをやり切らずに終了。
 ゲティスバーグの二日目は、南軍の攻撃がやや遅く、チャンスはあったが活かし切れず、北軍が守って終了。
 ゲティスバーグの三日目は、戦力がそろったところで、南軍が最後の攻撃を仕掛ける ― 大まかにいえばそういう流れだろうか。

 とにかくゲティスバーグは南北戦争最大の、派手な戦闘であり、ここを境にして南軍が一気に劣勢へと立たされた(ように見える)ため、熱心に研究され、文献も多く、Wikipediaなどにも実に詳細な記事が載っている。これらを読んでいると大まかな流れが分からなくなりかねないので、南北戦争ビギナーとしては、極力視点を引いて見ている。
 その中でも三日目は、やはり「ピケットの突撃(Pickett's Charge)」が象徴的で、分かりやすい場面だ。

 ゲティスバーグの二日目は、南軍が北軍陣地の左右両翼から攻撃をしかけたものの成果が上がらなかった。その日 ― 1863年7月2日の夜には、南軍のいずれの部隊も二日間の戦闘で疲労し切っていたが、ロングストリートの第一軍旗下,ジョージ・ピケット少将の師団が、新たに到着していた。
 この、まだ元気でフレッシュなピケットの師団を戦闘に、北軍陣地の中央を突破しようというのが、リーが立てた三日目の作戦である。ピケット師団の直接の上司であるロングストリートは、かなり強硬に反対した。彼にはこの攻撃に勝機を見出すことができなかったのである。かと言ってロングストリートが、他に具体的に勝てる何かの案を持っていたのかと言うと、そうでもなさそうだ。
 私が参考にしている書籍「南北戦争 49の作戦図で読む詳細戦記」の記述では、「ピケットは計画を聞いてかなり乗り気になっていた。」とある。
 結局 ― そして無論,最高指揮官であるリーの作戦は、翌7月3日、実行に移された。
 すなわち、ピケット師団を先頭にして、北軍中央への集中突撃が行われたのだ。ピケット師団のほかにも師団はあったし、総じて言えばロングストリート指揮下の数師団がこの突撃を行ったのだが、主力であり、先頭を切ったピケットの名を取って「ピケットの突撃」と呼ばれている。

 しかし、ロングストリートは乗り気ではない。ここからして、すでに幸先悪い。負けを予感するロングストリートに同情を覚える一方で、いったん突撃が決定となって、それが実行の段階になったら躊躇するべきでもない。ロングストリートの評価の難しさは、この辺りにあるのだろう。
 とにかく、突撃を補佐するために重要な要素である、集中砲撃はいくらか中途半端だった(それでも、旧来の戦闘に比べてると凄まじい砲撃だったが)。
 ピケット師団は、ルイス・アーミステッド准将が先頭に立って突撃を行い、一時は北軍の防御線を突破した。そこが、「南軍の最高到達点 The high-water mark of the Confederacy」と言われている。しかし、針の一突きが「突破した」だけで、さらに進むことはできず、むしろここが「限界地点」だったと言うべきだろう。
 北軍は防御陣地を立て直し、前日に続いてハンコックの軍団を中心になって、南軍を防いだ。アーミステッド准将はこの突撃で致命傷を負い、間もなく死亡した。
 「ピケットの突撃」に参加した南軍兵士はあわせて12000人。死傷者はその半数にも昇り、特にピケット師団の実に8割以上は無事では済まなかった。

 南軍の中央突破作戦は失敗に終わった。半減となった兵士たちが戻ってくるのを、リーは自ら出迎えた。彼は作戦の失敗と、このゲティスバーグでの敗戦を痛いほど味わっただろう。
 ピケット自身は生きて帰還したが、その師団の壊滅的な被害とともに、彼の心理状況も粉砕されていた。彼は突撃を命じたリーを許さず、その感情を表す言葉も、実際に発している。果たしてこれが、当初は「乗り気だった」軍司令官のあるべき姿だろうか。一方で、それほどまでにこの作戦の結果の悲惨さは、凄まじかったとも言える。

 ところで、この日の戦闘はピケットの突撃が行われた、中央部だけではなかった。7月3日の早朝、南軍ユーエルに対していた北軍の右翼が攻撃を仕掛け、南軍を押し戻していた。
 一方、南軍本体への合流が著しく遅れていたスチュアートの騎兵も、7日2日の夜には到着しており(スチュアートを愛していたリーも、さすがにこの時ばかりは、騎兵隊長への不満を露わにした)、翌3日は北軍の背後の撹乱を意図していたが、逆に北軍騎兵に妨害され、ピケットの突撃を助けることにはならなかった。