草子洗2018/01/02 16:21

 新春恒例、NHK での伝統芸能放映。楽しみにしていたのだが、けしからぬ事に雅楽の放映がない。

 能狂言はさすがにあった。お正月なので、一番目物(脇能)を放映することが多いのだが、今回は三番目物(鬘物)。宝生流の「草子洗(そうしあらい)」。
 …「草子洗」?!観世流で言う「草子洗小町」?!能楽二百番の中でも、きっての「なんじゃそりゃ」なストーリーをほこる作品ではないか。季節感はあまり無いほうだが、夏の曲ということになっている。水が関連するからだろうか。

 宮中での歌合わせを明日に控えた、大伴黒主(ワキ)は、相手が歌の名手である小野小町とあって、勝ち目はないと考えた。そこで夜、小町の屋敷に忍び込み、小町が明日詠む歌を吟じるのを聴き取り、手持ちの万葉集に書き込む。
 さて、翌日、王(子方)の前に黒主、小町、そして紀貫之ほかの官人が集まり、歌合わせが始まる。小町がまず歌を披露する。

 蒔かなくに 何を種とて浮草の 波のうねうね 生い茂るらん

 王がこれを褒めると、黒主はこの歌は万葉集にある古歌であり、盗作だと言い出す。

 既にもの凄い展開。まず大伴黒主と、小野小町が同時期に出仕していたかどうか、怪しい。しかも小町の歌を盗み聞きして万葉集に書き込み、盗作だと言い出す黒主が、あり得ないくらい悪い奴。この能の作者、一体、黒主になんの恨みがあるというのか。
 「ちょっと待て」な話としては、紀貫之が同席していることである。小町や黒主はせいぜい9世紀半ばまでの人だと考えられており、貫之は9世紀末から10世紀中盤の人物。そもそも、小町や黒主を含むいわゆる「六歌仙」を「古今和歌集」で前の時代の歌人として評価したのは、貫之である。時代を無視して、適当に有名歌人を並べるあたりが、「なんじゃそりゃ」と言われる所以の第一だろう。

 そもそも、この小町の歌はこれで良いのか。私は詩歌には全く興味も才能もないが、下の句の「波のうねうね」はさすがにどうかと思う。

 さて、黒主に古歌と指摘された小町、猛然と抗議する。けっこうああだ、こうだと言い合う。ともあれ、どういう了見で古歌などと言うのか。すると黒主は懐に持った万葉集にあると言う。小町、針のむしろで窮地に立たされる。「(歌道の)大祖,柿本人麻呂にも見捨てられた」とか、けっこうごちゃごちゃ言う。
 さて小町、草子をよく見ると、どうもこの歌の墨の様子がおかしい。これは最近書き加えられたに違いないと見破った小町、王の許可を得て、この草子を水であらってみる。
 すると、黒主が書き込んだ箇所が流れ落ち、一字も残らない。出雲、住吉、人麻呂、(山部)赤人、小町を助けてくれてありがとう。

 「草子洗」という能のタイトルはこのシーンから来ているのだが、そんな都合の良い事があるだろうか。
 しかも、事が露見した黒主、「自害します!」と言い出す。
 それを小町が押しとどめ、「同じ和歌の道の友なのだから、まぁいいじゃないか」と言う。王「どうだ黒主。」黒主「ありがたいことでございます。」
 待て待て、色々あるけど、ちょっと待て!それで済むのか?しかも、「小町黒主遺恨なく小町に舞を奏せよと」という事になり、小町が風折烏帽子を被り、中の舞いを待ってめでたく終わるという強引な展開。
 歌の名手同士の歌合わせが、どうして小町の舞いでしまるのか。ちゃんと歌でしめるべきではないのか?…最後まで色々謎の能であった。

 作者は不明。能の場合、作者が不明だと大抵、世阿弥作ということにするが、この作品は誰の作品が不明のまました方が無難だろう。あまりにも「なんだそりゃ」過ぎる。
 今回のNHKでの放映は、前場をごっそりカットして、後場だけを放映した。黒主と、その下人(アイ狂言)のシーンがないのは、物足りない。荒唐無稽なストーリーの割に、ストーリー展開や、登場人物が多いところが見所である、この作品としては、ぜひとも前場も放映してほしかった。
 今回の宝生流ではシテツレが官人として二人いたが、観世流だとさらにシテツレの官女が二人登場する。どうせお正月の華やかな趣向というのであれば、こちらで見たかった。

 能の話というのは、だいたい荒唐無稽で、辻褄のあわないことが多い。「草子洗」はそのうちでも最たる物。あまりにも大伴黒主が気の毒なので、彼の名誉を挽回する作品が作られても良いだろう。なんだったら、五番目物(切能)で鬼をやっつけても良い。