モーツァルトは子守唄を歌わない2016/10/05 21:25

 好きな作家と言えば。

 司馬遼太郎
 塩野七生
 アガサ・クリスティ

 ここにもう一人、加えたい人が居る。
 森雅裕がその人だ。
 その作品の幾つかしか読んでいない。しかし、1985年江戸川乱歩賞を受賞した出世作,「モーツァルトは子守唄を歌わない」は、私が読んだ回数としては、一位の作品だろう(二位は、たぶん「坂の上の雲」)。

 モーツァルトが死んで18年後、ナポレオン率いるフランス軍が進駐するウィーンでのこと。18年前に死んだフリースという医者が作った子守唄を、楽譜屋がモーツァルト作曲として出版すると知って、その娘シレーネ・フリースは憤慨していた。
 ところが、その楽譜屋はベートーヴェンが演奏会に向けて練習していた音楽ホールの貴賓席で、「水浴びした焼死体」となって発見される。それがきっかけとなり、ベートーヴェンはモーツァルトとフリースの死にまつわる謎を追い始める。
 探偵役ベートーヴェンの相棒は、弟子でピアニストのカール・チェルニー。やがて彼らは、モーツァルトを毒殺したという噂のあるサリエリや、モーツァルトも所属していたフリーメイソン、宮廷、フランス軍などを巻き込んだ「真実」に迫る。

 35歳で死んだモーツァルトに関して、毒殺だ、陰謀だという話は昔からある。私はモーツァルトだろうが、そうでなかろうが、歴史に関して陰謀説はまったく信じない人なので、モーツァルトもあの時代はよくあった、若くして死んだ人の一人だと思っている。
 この作品に描かれる内容は全くのフィクションなので、人物の描かれ方なども含めて、本気にはせず、気楽に楽しんでほしい。
 とにかく、この小説は江戸川乱歩賞に相応しいミステリーであり、極上のエンターテインメントだ。
 探偵役にベートーヴェンを起用した時点で、まずこの作品の勝利は決まったような物だ。気むずかしくてぶっきらぼう、皮肉屋で口の悪いこの大作曲家と、天才ピアニストだけど生意気な弟子のコンビ芸は、一読の価値がある。

「先生。思いきってここで死んで、モーツァルトの境地に達することにしますか」
「だから、お前はピアニストなんてやめて、ワイン屋でも始めろ、というんだ」


 曲目としては、モーツァルトのオペラ「魔笛」が重要な存在になっている。しかし、聴いたことがなくても支障は無いだろう。むしろ、ベートーヴェンのピアノ協奏曲5番「皇帝」は、聞いておくと良いかも知れない。何度か演奏シーンがある。
 それから、フルートという楽器が「木管楽器」であり、本来「木製」であることを知っていると良いだろう。キーの沢山ついた金属製の楽器になったのは、19世紀後半以降だ。

 とにかく、このミステリー小説には 殺人あり、暗号有り、宝探しあり、楽器学あり、ワインあり、歴史あり、活劇あり。てんこ盛りのめまぐるしい展開が、明るさと軽妙さにつつまれて、詰めこまれている。
 もう一つ特筆すべきは、作品の舞台がほぼウィーンの町中に限られていること。このウィーンをベートーヴェンとチェルニーが駆け回るのだが、馬車を使うシーンは1回くらいしかない。ウィーンを訪ねる前に読むと楽しさも増すだろう。

 ひとつ残念なのは、この作品は新品で入手できないことだ。
 1985年の江戸川乱歩賞は、森雅裕と東野圭吾が同時受賞した。後者は今や押しも押されぬ売れっ子作家。一方、我が森雅裕は、作家としての成功の道をたどらず、その著作はどれも絶版になっている。
 どうやら森雅裕という東京芸術大学,美術楽部出身の作家は、大人として、社会人として、必要であるコミュニケーション能力や、自己制御能力に欠けるところがあるらしい。うまく「プロの作家」として振る舞うことが出来ず、その世界からはドロップアウトしてしまった ― もしくは、させられたようだ。

 しかし、森雅裕のファンというのは、確実に居る。「モーツァルトは子守唄を歌わない」もかなりの部数が刷られたはずだし、10年ほど前には復刊企画で発売もされた。古本市場にはたくさん出まわっているだろう。
 明るく楽しいミステリーが好きな方には、一読をお勧めする。

 「モーツァルトは子守唄を歌わない」には、続編「ベートーヴェンな憂鬱症」もある。同じ森雅裕作品としては、芸大を舞台にした、オペラと美術をめぐる学園ミステリー「椿姫を見ませんか」も、とてもお勧め。