中村紘子2016/07/31 16:38

 ピアニストの中村紘子が亡くなった。ご冥福をお祈りします。

 彼女の功績は大きい。日本において、ピアニストという職業のシンボルだった。
 多くのピアニストは若くして才能を認められ、海外へ留学し、有名な国際コンクールで良い成績を残す。彼女はその典型だった。日本で押しも押されぬ「天才」だった彼女が、ジュリアード音楽院に入学するなり、指一本の下ろし方から叩き直されたという。そこからまた鍛錬を重ね、国際ショパンコンクールで四位に入賞した。
 コンクールでの成績は、プロのピアニストとしては最初の一歩に過ぎない。重要なのは、その後のさらなる成長であり、中村紘子はそれを成し遂げたからこそ、その後のピアニストとしての足跡を残せたのだと思う。

 世界のトップクラスと認識される「超一流」のピアニストだったわけではない。上には上がいる。私も、音高進学以降に彼女の演奏を選んで聴くことはなかったと思う。
 しかし、小学生くらいまでは、ピアニストといえば中村紘子だった。彼女の華やかな演奏活動は、これぞピアニスト。綺麗なドレスを着て、素晴らしくショパンを弾く姿は、多くの少女達の憧れであり、音楽大学への進学を志すきっかけになったことだろう。
 ピアノを習う子供の親は、中村紘子のレコードやCDを買うこともあっただろう。それを通じてショパンやリストの名曲がお馴染みのものになったことも、彼女の功績だ。
 「ピアノの実力はイマイチだが、それ以外の要素で売っている」という存在ではなく、飽くまでもプロとして立派な、一流ピアニストだった。

 中村紘子の凄いところは、一流のピアノ以外にも才能を発揮したことだ。雄弁であり、文章が上手く、構成力と企画力があった。ピアノを弾くだけではない、バイタリティに溢れた文化の発信者だった。
 テレビに出演しても面白い話をするし、ピアノの実力がそれを説得力のあるものにした。「N響アワー」で、海老沢敏先生と番組の司会を務めたこともあった。

 病気療養中、「病気が治ってもピアノが弾けないのは嫌だ」と語ったという。気持ちは良く分かる。しかし、彼女はたとえピアノが弾けなくなっても、ピアノの、そして音楽文化のために、沢山のことを成し遂げたに違いない。

 ポリーニやアルゲリッチが、バリバリの現役で活躍しているのを思うと、中村紘子の死は早すぎた。なおさら惜しい人を亡くしたと、残念に思う。

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