リッチモンド陥落2015/04/04 20:36

 ロバート・E・リー率いる55000の南部連合軍は、南部連合国の首都リンチモンドの南ピーターズバーグに布陣し、ユリシーズ・グラント率いる125000の北軍がこれを包囲したのが1864年6月。それから半年以上が経過した。
 北軍はこれまでに、守りを固めるリーに攻撃を仕掛けて、恐ろしく酷い目に遭いつづけている。我慢強いグラントは長期包囲戦に持ち込んだ。



 北部連邦リンカーン大統領にすれな戦争も4年、早く決着をつけたいところだが、幸い1864年の大統領選挙には勝利した。政治的問題を一つ乗り越え、グラントの持久戦は1865年に持ち越された。
 ピーターズバーグ包囲中、北軍は南軍の補給路を断つことに力を傾けた。ザ・バンドの楽曲 "The Night They Drove Old Dixie Down" で「ストーンマンの騎兵がダンヴィル鉄道を破壊する」とあるとおりだ。
 ピーターズバーグの補給路が断たれることはイコール、首都リッチモンドもまた干上がることも意味していた。

 西部戦線で南部連合軍は負け続きで、とうとう残存兵がジョンストンのもとに寄り集まっただけになってしまった。しかし、まだ降伏はしていない。
 1865年3月末、リーはジョンストンとの合流を最期の望みとして、行動を起こすことを決断した。これは得意の守りを破ることであり、実のところグラントが待ち望んだ事でもあった。

 3月25日、リーはジョン・ゴードンをして北軍のステッドマン砦を攻撃させた。その方面に北軍が兵力を集中する間に西走して大回りに南を目指す作戦だ。しかしこの攻撃は数にまさる北軍に大した脅威は与えなかった。
 グラントはこの戦闘から、リーの行動を読んだ。すかさず、グラントはリーの本隊に総攻撃を仕掛けた。ピーターズバーグの防衛線は数日耐えたが、とうとう4月2日に突破を許した。
 リーはリッチモンドに対し、撤退を勧告した。そして軍をピーターズバーグから脱出させ、西へと移動させ始めた。北軍はその北側から併走し、時として小規模な衝突を繰り返しつつ、さらに西へと移動した。

 リッチモンドの南部連合国内閣は4月2日、リーからの勧告を受けてリッチモンド退去を決定。かろうじて通じていた鉄道,リッチモンド・ダンヴィル線でデイヴィス大統領以下、脱出した。
 翌4月3日、北軍がリッチモンドに入り、ここに南部連合国首都リッチもモンドは陥落した。せめてもの南部の抵抗として、北軍に物資を与えないために、街の多くが燃やされていた。

 リンカーンは、早くも4月4日 ― 150年前の今日 ― にはリッチモンド入りした。その来訪に歓喜した黒人たちがリンカーンの足下にひざまずいたところ、彼が "Don't kneel to me. You must kneel only to God." 「いけない、ひざまずくべきは神の御前だけです。」と言ったのはこのときだ。
 リンカーンは4月8日にはワシントンへ戻った。彼が大統領としてリッチモンドを訪れたのは、これが最初で最後だった。

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