フィッシャー砦 / ウィルミントン陥落2014/04/19 21:04

 最後に南北戦争の記事を書いたのは、去年の10月。1864年暮れに、北軍のシャーマンがジョージア州の北東端サヴァンナを陥落させたところまでだった。

 こうも間があくと確認しなければならないのが、どうしてこの音楽雑記のブログに南北戦争の記事が上がるかということ。
 もともと私は歴史が好きだが(ブログのカテゴリーにも「歴史」がある)、アメリカの歴史に関しては全くの無知だった。「ボブ・ディラン自伝」を読んでさらにそれを痛感し、これはイカンとアメリカの歴史の本を読んだ。歴史として面白かったのは、南北戦争までだった。
 さらに、トム・ペティ&ザ・ハートブレイカーズの凄腕ピアニストベンモント・テンチの曽祖父ジョン・ウォルター・テンチは弟たちとともに南北戦争に南軍の騎兵として参加し、最終的には少佐になった人物である。その軍服姿の肖像は、テンチ家の居間を飾り、その様子はハートブレイカーズの前身バンドマッドクラッチのデモテープ録音時の写真に捉えられている。
 どうせならテンチ家の兄弟と、南北戦争を理解のために追っていこうというわけで始まったのが、南北戦争記事である。

 1861年に始まった戦争は、いよいよ大詰め。東部戦線では南部連合の首都リッチモンドの南40kmピーターズバーグで、南部連合軍の名将ロバート・E・リーが、北軍総司令官のユリシーズ・グラントの包囲戦に対峙している。
 そして西部戦線は北軍司令官ウィリアム・テムカセ・シャーマンが快進撃を続け、1864年のクリスマスには、サヴァンナを攻略した。

 シャーマンの狙いは、サヴァンナから今度は北へ向かいつつ要衝の町を落とし、グラントと合流することである。
 1865年の1月、北部連邦軍を率いるシャーマンは港を擁するサウス・カロライナ州のチャールストンを攻略。更に内陸のオーガスタ(マスターズ・ゴルフで有名な町)と落とした。この間、南部連合軍を率いていたP.G.T.ボーレガードはオーガスタの 100km 北東のコロンビアに布陣していたが、シャーマンが迫る前に退却していた。
 コロンビアはサウス・カロライナ州の州都である。これが落ちたため、南部連合首都リッチモンドのあるヴァージニア州の直ぐ南、ノース・カロライナも、南から攻め上がる北軍の眼前となった。

 ノース・カロライナ南東の港町ウィルミントンは、いまや南部連合に残された、最後の港となりつつあった。ピーターズバーグに「籠城」しているリーの軍勢にとっても、このウィルミントン港からの物資が命綱だったのだ。
 ザ・バンドの有名な曲 "The Night They Drove Old Dixie Down" の歌詞には "In the winter of '65, we were hungry, just barely alive"「1965年の冬、俺たちは腹を空かせ、やっとこさ生きていた」とあるが、南部連合軍の兵士達は、ウィルミントンからの細々とした物資で命をつないでいた。



 ウィルミントンを守るのは、港の先に位置するフィッシャー砦。北軍はこれを落とさなければならない。この時の北軍海軍の司令官は、デイヴィッド・ディクソン・ポーター少将。グラントは1864年の12月のうちに、陸軍のベンジャミン・バトラーを派遣した。
 バトラーはシャーマンがサヴァンナを落としたのと同時期、1864年のクリスマス・イヴに、200トン以上の火薬を積み込んだ船をフィッシャー砦のすぐ側で爆破させて砦を落とすという、もの凄い計画を立てた。
 私が参考にしている本には、この凄い作戦がバトラーによって計画されたとあるのだが、なぜ陸軍の彼が計画したのかは、よく分からない。成功すれば南北戦争でも指折りの大作戦になったであろうが、結局は砦に近づき切れない内に爆発させてしまい、砦は無傷のまま守られた。
 海から砦に砲撃を仕掛けるポーターは、バトラーをあまり当てにしていなかったようだ。グラントもこの人事は失敗だったと判断したのか、年明けにバトラーを解任し、アルフレッド・テリー准将を派遣した。

 1865年1月、北軍は再びフィッシャー砦への攻勢を仕掛けた。
 海軍が雨のように砲弾を砦に浴びせた。この時の砲撃はかなり正確だったらしい。砦が海側からの攻撃にかかり切りになるところを、背後からテリーが陸軍で攻め込んだ。
 砦の南軍はかなり粘ったようだ。この時代、戦闘は夜になれば自然と止むものだったが、1月の夜10時まで戦闘は続き、やっと北軍はフィッシャー砦を陥落させた。
 砦が落ちたことで、ウィルミントンも護りを失ったことになり、ただちに南軍はこの町を北軍に明け渡した。

 南部連合の補給の源泉だったウィルミントンが落ちた。
 リー率いる南軍の物資が尽きるのは、時間の問題だった。