Ravi Shankar ― 2012/12/12 21:50
ラヴィ・シャンカールが亡くなった。
アメリカはカリフォルニア州サンディエゴにて。92歳だった。遠からずそういうニュースがあるだろうとは思ったが、やはりショックだ。ともあれ、日本人の言う「大往生」と表現するべきだろう。
彼の名前については、日本語表記では「シャンカル」が一番オリジナルに近いらしいが、私は以前からのクセで、「シャンカール」と言うことが多い。
私が最初にラヴィ・シャンカールの存在を知ったのは、意外にもビートルズ関係ではなかった。
ビートルズは12歳から好きになったし、その後何度か彼の名前くらいは目にしていただろうが、きちんと記憶はしていなかったらしい。まさにラヴィを「認識」したのは、音楽大学在学中、民族音楽学の講義においてだった。
「民族音楽学」というのもずいぶん大雑把なカテゴライズだが、とにかくその先生はインド音楽が専門だった。19世紀からはじまる「民族音楽学」の流れが、やがて20世紀の「民族自決」のムーヴメントに乗り、それぞれの音楽を行う当事者たちが自らの音楽でまさに、「討って出た」 ― ラヴィはその代表として紹介されたのだ。
この際、見たドキュメンタリー作品が、1986年の 「 シタールの巨匠 ラヴィ・シャンカル / PANDIT RAVI SHANKAR 」だった。ラヴィの経歴や、活動を紹介した作品で、ジョージも登場してコメントしている。
これを見た時期の私は、まさに「ビートルズの中で一番格好良いのジョージだ」と知った頃で、ビートルズとラヴィのインドが、私の中でつながった瞬間だった。
1920年生まれ、インド出身のラヴィは、自らのシタール演奏、作曲、編曲、コンサートの企画力などを発揮し、1950年代ごろから積極的に世界各国で演奏活動を行っていた。まさに、20世紀民族音楽の攻勢そのものだった。
彼を傑出した存在にしたのは、積極的な他ジャンルとの交流だった。ヴァイオリニスト,メニューインとの共演は特に有名だし、フルートのランパルなどとも共演している。
そして60年代、当時まだ20代のビートルだったジョージ・ハリスンを通じて、ロック、ポップス、そしてジャズなどの世界にその影響は広がった。ビートルズ音楽の多様性や、サイケデリック・サウンドの発展、そしてハードロック、ヘヴィメタルにも大きな影響を与えたことは、間違いないだろう。
さらに、政治状況によって発生した難民を救うべく、チャリティ・コンサートを企画,実施するという、世界初に近い偉業をジョージと共に成し遂げたのも、ラヴィだ。
私はいくらか「器楽」が好きで、ラヴィの音楽はそちらの耳で聞いている。むしろ、クラシックとのコラボにはあまり興味がない。
「コンサート・フォー・バングラデシュ」での演奏も迫力があって良いし、この、ジョージも出演したテレビ番組での演奏なども、取っつきやすくて好きだ。
伝統に則り、飽くまでも純粋に「インド音楽」の深淵を求める人々は、きっとラヴィを非難するのだろう。浅薄で、ニセモノ臭く、商業主義的だ、あれがインド音楽などと認識されては困る ―
それもまた、真実なのだろう。しかし、それでラヴィ・シャンカールの功績が目減りするとは思えない。彼の存在がなかったら、どれほどの人がインド音楽に触れずに一生を終えたことだろうか。
自らの民族音楽を演奏するなら、討って出るのだ、ためらう必要も、弱気になる必要もない。自らに誇りがあるのなら、堂々と討って出るのだ ― 私にとって、ラヴィ・シャンカールの存在は、「闘士」だった。
そして、音楽とともに、自らの思想をも人に伝える術を持つのだ、人間であり、魂と叡智を持つ以上、きっとそれができる。違う思想を持つ人とも、きっと美しく響き合うことが出来る、ラヴィはそう信じていただろう。
こんにち、私たちは多くの「民族音楽」を耳にする。私はアイルランドのケルト音楽が好きだし、南米の民謡を愛好する人もいる。それらは、ラヴィによっていくらか勇気づけられたに違いないと、私は思っている。
その結果、彼は素晴らしい音楽世界を展開し、多くの友人を得た上に、多くの尊敬を集めた。ジョージとの友情は言うに及ばず、「コンサート・フォー・ジョージ」での、エリック・クラプトンの表現を借りるなら、「ぼくらのヒーロー」になった。エリックにとっては、単に「プレイヤー」としてのヒーローではなく、偉大な存在としての「ヒーロー」に違いない。
今、多くのミュージシャンたちが、「ヒーロー」の死去を悲しんでいることだろう。
私は20世紀を象徴する音楽的存在は、ジョン・ケージ、ビートルズ、そしてラヴィ・シャンカールだと思っている。この三者が、すべて姿を消した。
2001年、ジョージが58歳で亡くなったとき、その最期を看取った人々の中に、当時81歳だったラヴィが居た。彼の存在が、オリヴィアやダーニにとって、どれほど心強かったことだろう。何と言っても、ジョージ自身が、病との戦いの日々を、ラヴィの存在でどれほど救われたことだろうか。
ラヴィは、親子ほども年の離れた親友であり、弟子であり、まさに魂における息子であったジョージを失い、どれほど悲しんだだろうか。彼らの深い友情に、改めて思いを馳せずにはいられない。
「コンサート・フォー・ジョージ」の冒頭のラヴィの言葉が思い出される。
「みなさん、私は今夜ここに、ジョージの存在を強く感じています。これほどたくさん、彼を愛した人々が集っているのです、ジョージも、きっと居ます ― 」
私自身は特に宗教的でもないし、霊魂の存在について特にどうという考えもない。ただ、あのときのラヴィの言葉だけは、本当だと信じている。
アメリカはカリフォルニア州サンディエゴにて。92歳だった。遠からずそういうニュースがあるだろうとは思ったが、やはりショックだ。ともあれ、日本人の言う「大往生」と表現するべきだろう。
彼の名前については、日本語表記では「シャンカル」が一番オリジナルに近いらしいが、私は以前からのクセで、「シャンカール」と言うことが多い。
私が最初にラヴィ・シャンカールの存在を知ったのは、意外にもビートルズ関係ではなかった。
ビートルズは12歳から好きになったし、その後何度か彼の名前くらいは目にしていただろうが、きちんと記憶はしていなかったらしい。まさにラヴィを「認識」したのは、音楽大学在学中、民族音楽学の講義においてだった。
「民族音楽学」というのもずいぶん大雑把なカテゴライズだが、とにかくその先生はインド音楽が専門だった。19世紀からはじまる「民族音楽学」の流れが、やがて20世紀の「民族自決」のムーヴメントに乗り、それぞれの音楽を行う当事者たちが自らの音楽でまさに、「討って出た」 ― ラヴィはその代表として紹介されたのだ。
この際、見たドキュメンタリー作品が、1986年の 「 シタールの巨匠 ラヴィ・シャンカル / PANDIT RAVI SHANKAR 」だった。ラヴィの経歴や、活動を紹介した作品で、ジョージも登場してコメントしている。
これを見た時期の私は、まさに「ビートルズの中で一番格好良いのジョージだ」と知った頃で、ビートルズとラヴィのインドが、私の中でつながった瞬間だった。
1920年生まれ、インド出身のラヴィは、自らのシタール演奏、作曲、編曲、コンサートの企画力などを発揮し、1950年代ごろから積極的に世界各国で演奏活動を行っていた。まさに、20世紀民族音楽の攻勢そのものだった。
彼を傑出した存在にしたのは、積極的な他ジャンルとの交流だった。ヴァイオリニスト,メニューインとの共演は特に有名だし、フルートのランパルなどとも共演している。
そして60年代、当時まだ20代のビートルだったジョージ・ハリスンを通じて、ロック、ポップス、そしてジャズなどの世界にその影響は広がった。ビートルズ音楽の多様性や、サイケデリック・サウンドの発展、そしてハードロック、ヘヴィメタルにも大きな影響を与えたことは、間違いないだろう。
さらに、政治状況によって発生した難民を救うべく、チャリティ・コンサートを企画,実施するという、世界初に近い偉業をジョージと共に成し遂げたのも、ラヴィだ。
私はいくらか「器楽」が好きで、ラヴィの音楽はそちらの耳で聞いている。むしろ、クラシックとのコラボにはあまり興味がない。
「コンサート・フォー・バングラデシュ」での演奏も迫力があって良いし、この、ジョージも出演したテレビ番組での演奏なども、取っつきやすくて好きだ。
伝統に則り、飽くまでも純粋に「インド音楽」の深淵を求める人々は、きっとラヴィを非難するのだろう。浅薄で、ニセモノ臭く、商業主義的だ、あれがインド音楽などと認識されては困る ―
それもまた、真実なのだろう。しかし、それでラヴィ・シャンカールの功績が目減りするとは思えない。彼の存在がなかったら、どれほどの人がインド音楽に触れずに一生を終えたことだろうか。
自らの民族音楽を演奏するなら、討って出るのだ、ためらう必要も、弱気になる必要もない。自らに誇りがあるのなら、堂々と討って出るのだ ― 私にとって、ラヴィ・シャンカールの存在は、「闘士」だった。
そして、音楽とともに、自らの思想をも人に伝える術を持つのだ、人間であり、魂と叡智を持つ以上、きっとそれができる。違う思想を持つ人とも、きっと美しく響き合うことが出来る、ラヴィはそう信じていただろう。
こんにち、私たちは多くの「民族音楽」を耳にする。私はアイルランドのケルト音楽が好きだし、南米の民謡を愛好する人もいる。それらは、ラヴィによっていくらか勇気づけられたに違いないと、私は思っている。
その結果、彼は素晴らしい音楽世界を展開し、多くの友人を得た上に、多くの尊敬を集めた。ジョージとの友情は言うに及ばず、「コンサート・フォー・ジョージ」での、エリック・クラプトンの表現を借りるなら、「ぼくらのヒーロー」になった。エリックにとっては、単に「プレイヤー」としてのヒーローではなく、偉大な存在としての「ヒーロー」に違いない。
今、多くのミュージシャンたちが、「ヒーロー」の死去を悲しんでいることだろう。
私は20世紀を象徴する音楽的存在は、ジョン・ケージ、ビートルズ、そしてラヴィ・シャンカールだと思っている。この三者が、すべて姿を消した。
2001年、ジョージが58歳で亡くなったとき、その最期を看取った人々の中に、当時81歳だったラヴィが居た。彼の存在が、オリヴィアやダーニにとって、どれほど心強かったことだろう。何と言っても、ジョージ自身が、病との戦いの日々を、ラヴィの存在でどれほど救われたことだろうか。
ラヴィは、親子ほども年の離れた親友であり、弟子であり、まさに魂における息子であったジョージを失い、どれほど悲しんだだろうか。彼らの深い友情に、改めて思いを馳せずにはいられない。
「コンサート・フォー・ジョージ」の冒頭のラヴィの言葉が思い出される。
「みなさん、私は今夜ここに、ジョージの存在を強く感じています。これほどたくさん、彼を愛した人々が集っているのです、ジョージも、きっと居ます ― 」
私自身は特に宗教的でもないし、霊魂の存在について特にどうという考えもない。ただ、あのときのラヴィの言葉だけは、本当だと信じている。
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