十牛図 / 秋庭歌2011/09/11 20:43

 9月10日土曜日、国立劇場に「声明 十牛図 / 雅楽 秋庭歌一具」を聴きに行った。

 国立劇場に行くのは久しぶりだ。
 国立劇場と言うと、思い出す。学生の頃、一般教養科目として「法学」を取ったことがあった。法学の専門家である先生が、法学とは縁遠い我々学生に、法学の基礎の基礎を教える授業だった。その先生は、毎年「みなさん、日本の最高裁判所はどこにありますか?」と尋ね、何人かの生徒を指すことにしていたらしい。
 私が講義に出たときも、同じ事が行われた。何人かの生徒が分からないと答えたあと、私が指された。私はとっさに、「国立劇場の」と答えた。すると、先生は暫し押し黙り、そして言ったのだ。
 「私はこの学校で長く教えていますが、最高裁判所の場所を答えた人は、あなたがはじめてです。」

 私はこのことを名誉とするべきなのだろが、何年にもわたって、一人も分からなかったという事実は、音大の浮き世離れした雰囲気を如実に表しており、そっちの方が問題だ。
 そもそも、「国立劇場の」という表現は、正しくない。本来なら、「隣り」と言うべきだろう。しかし、私は地下鉄半蔵門駅から国立劇場に向かう道すがら、最高裁判所への順路を目にしており、それがなんとなく「裏」に思えたので、そう答えたのだった。



 さて今回の演奏会は、国立劇場会場45周年特別企画公演である。「新たなる伝統の創造」という副題がつき、一曲目が菅野由弘の声明,新曲初演「十牛図 鎮魂と再生への祈り ― 心の四十五声―」。
 声明(しょうみょう)とは、仏教の僧が歌う宗教歌とでも言うべきだろうか。お経をさらに音楽的,ダイナミックにしたものと考えて良い。雅楽が伴奏につくこともあるし、お寺でよく目にするような打ち物(打楽器)も加わるが、メインは僧たちによる歌唱だ。
 今回の新曲は、浄土宗,真言宗,日蓮宗の三宗派からそれぞれ十五人ずつ、総計四十五人の大迫力声明が聞き所。さすがに、ボーズ四十五人大合唱は凄い。楽曲の題材は禅の修行と悟りの道筋を表す絵なのだが、それもスクリーンに映し出したり、照明、舞台装置など、総合的によく出来ていた。
 私が菅野由弘の存在を初めて知ったのは、テレビ音楽においてだが、声明や雅楽楽器など、伝統楽器を用いた作曲でも、お馴染みになっている。

 休憩をはさんで後半には、おなじみ伶楽舎による、武満徹の「秋庭歌一具」。そもそも伶楽舎結成のきっかけが、この曲だったのだから、十八番と言うべきだろう。
 私の判断基準では、雅楽の現代曲というものは大抵イマイチな作品が多い中、さすがに武満の「秋庭歌」はしっかりしている。人によっては「大名曲」という最高評価がなされるのだが、ただ私の好みではそこまでは行かない。所詮、私は「雅楽は古典にかぎる」という考えにとらわれている人なので、仕方が無い。

 伶楽舎の演奏と曲そのものは良いのだが、今回の場合舞台演出がいただけなかった。まず、舞台が真っ白なのだ。しかも、天井から白い糸が滝のように垂れ下がっている。これは良くない。この曲は「秋」の曲なのだ。白は冬の色だし、滝だと夏になってしまう。どこにも秋らしさがない。邦楽はこの季節感を非常に重要視するのだから、国立劇場でこのミスマッチは減点だ。
 さらに、どういう演出意図なのか、客席の灯りが、かなり明るいままの演奏だった。「十牛図」の時は普通に暗くしていたのだが。明るいとどうしても観客は気が散り、身動きをしがちで、物音はするし、集中力はなくなるし、さらに途中退席する人が多すぎる。正直言って雅楽はよほどでないと眠くなるのだから、観客の集中力を切らさないような努力はするべきだろう。

 今回の演奏会も、本番少し前に伶楽舎の友人に頼んで、チケットを受付に置いておいてもらおうと、のんびり構えていたのだが、大間違いだった。今回は伶楽舎の主催ではなく、国立劇場の主催。ちゃんと国立劇場からチケットを取らなければいけない。
 慌てて取ってみると、ソールドアウト直前だった。もちろん、行ってみると客席は満席。やはり国立劇場の集客力は違うなと、感心した。
 もっとも、曲目ジャンルに馴染みの薄い人も多かったようだ。私の背後ではしきりに「がらく楽器、がらく楽器」と連呼するお姉さんが居て、閉口した。さらに彼女、「秋庭歌」の幕が下がるやいなや、
「よくわかんなかった~」とでかい声で一言。周囲が苦笑していた。お姉さんにとって「がらく」は退屈だっただろう。
 そこで思ったのだが、今回のプログラムは配置ミスだったような気がする。どちらかというと静謐な「秋庭歌」を先に演奏して、迫力のある「十牛図」を後にするべきだったのではないだろうか。