ノースアンナ2011/09/02 22:48

 1864年春の時点から考えても、南北戦争は北部連邦優位で展開していた。人口は最初から北部が圧倒的だったので兵力の分母が違うし、ヨーロッパからの移民がいきなり兵士にされるような強引な手段が取られた。
 さらに産業面でも北部は南部を圧倒していたし、海上封鎖のため貿易行為を妨げられレしまうと、南部は干上がるしかない。
 しかし、なんと言っても政治という高次元で北部連邦は南部を圧倒していた。
 南部は何も北部に打ち勝たずとも、その独立性を認められれば良いわけで、ヨーロッパの大国による仲裁でそれを達成しようと目論んでいたはずだった。しかし、南部にはそれを行うほどの経綸の才に恵まれた政治家は居なかった。そして、相手が圧倒的に政治能力に長けたリンカーンだったことは、南部の不利を決定的にしていた。
 リンカーンは常にタイミングを見計らい、良い時期に良い政治声明を上手く繰り出すことにより、事態を優位に進めていた。特に、アンティータムの戦いの直後、奴隷解放宣言を行った事は、彼の政治的勝利を決定付けた。奴隷制度については、北部でも意見が分かれており、はっきりと明言することは ― 彼の個人的信条はともかくとして ― 避けるべきだった。
 しかし、ヨーロッパ諸国にとって、この奴隷解放宣言は北部支持の決定打だった。リンカーンはその大きな果実を取った。
 リンカーンは決して、誠実で正直なだけの人物ではなかった。したたかな彼には政略があり、それを実行するためには妥協を許さず、戦時ならではの強権を振るった。彼は頑固で、辛抱強く、徹底的で、目的のためには細心で、抜け目が無かった。だからこそ、南部に対して懐柔作戦はとらず、あくまでも戦争での勝利で ― しかも早く事を進めたかった。
 時あたかも、大統領選の年である。リンカーンは、しつこく北軍の攻撃を退け続けるリーを、一刻も早く撃退してしまいたかった。

 中将に任じられた北軍司令官グラントは、リンカーンの意図を当然理解しつつ、一方で迷惑がっていただろう。リンカーンは比類無き政治家だが、戦闘に関しては素人だ。
 ともあれ、グラントはリー率いる南軍を撃滅する方法を考えた。まともに攻撃したところで、地勢と塹壕を熟知したリーの守備に、決定的な敗北を味あわせるのは難しい。それはウィルダネスと、スポットシルヴァニアで証明済みだ。
 騎兵の機動性を用いて、目標をリッチモンドと見せかけておびき出そうとしても、それに対応したのもまた南部の騎兵だけで、スチュアートを仕留めはしたものの、リーはあいかわらず動かない。

 グラントは5月20日、もう一度リーを誘い出す作戦に出た。北軍にとって忌まわしき樹海を出て、南東方向 ― つまりリッチモンド方向へと動かし、南軍を開けた場所に誘い出した上で、右側から会戦を挑もうとしたのだ。そうなれば、リーお得意の少数奇襲も、強固な陣地からの猛烈な応射もできない。
 しかし、スチュアートを失ったとは言え、南軍の騎兵はまだその特性を活かし続けていた。スチュアートの後任となったウェイド・ハンプトンと、リーの甥フィッツヒュー・リーの騎兵は、北軍の動きをいち早く察知し、リーは北軍に先んじて南軍を移動させたのである。
 5月22日、リーはノース・アンナ側南岸に強固な防衛線を築いた。しかも、南軍にしては珍しく、9000の援軍も加わっていた。バミューダ・ハンドレッドでバトラーの北軍が動けなくなっていたため、P.G.T.ボーレガードはピケットの師団を送ることが出来たし、ニューマーケットでの勝利により、シェナンドー渓谷からも、ブレッキンリッジの部隊が到着していたからである。

 リーは南北に蛇行するノースアンナ川に対し、V字型の陣形を敷いた。翌23日、グラントの北軍はノースアンナを渡ってこの南軍陣地に、左右から攻撃を仕掛けたが、先に布陣していた南軍の守りには敵わない。しかも背後はさっき渡ったばかりノースアンナ川。加えて、南軍の陣地の凸部分と川に阻まれて、左右双方の北軍は連絡が取れず、結局押し戻されてしまった。
 ここで、戦闘に関して勘の良い指揮官だったら、退却する北軍を勢いよく追って、大打撃を加えるところだろう。しかし、南北戦争中にそれが出来た将官は驚くほど少なく、その一人が前年に死んだトーマス・"ストーンウォール"・ジャクソンだった。
 そのジャクソンの後任にあたるA.P.ヒルは、左翼から攻撃してきた北軍を首尾良く撃退したが、その機に乗じて大攻勢に転じるチャンスは逸してしまった。リーはこのことにひどく落胆したようだ。
 その頃にはグラントもこノースアンナ川渡河作戦の不利を悟り、攻撃を控えるようになった。このことによって、南軍は逆攻勢のチャンスを失った。

 リーにとって悪いことに、南軍は優秀な現場指揮官不足に悩まされていた。信頼するロングストリートはウィルダネスで負傷したため、この時点では指揮不能だったし、A.P.ヒルはウィルダネス以来体調が優れず、万全の指揮ができない。その上、もう一つの大隊指揮官であるユーエルまで体調不良で(これはかなり以前からそうなのだが)、切れが無い。あとは軍団指揮官としては経験の足りない少将たちがいるだけで、これではさすがのリーもどうしようもなかった。
 その上、ここにきてリー自身が倒れてしまったのだ。腸痙攣ということになっている。三日ほど、彼はベッドを離れることが出来なかった。こうなるともう、ストレス性ではないかと疑わざるを得ない。
 この間、グラントの慎重傾向も相まって、双方の戦闘が停止した。逆にグラントがリーの病を知り、それに乗じて大攻勢をかけていたら、南北戦争はもっと早く終結していたかも知れない。

 歴史はそうならず、ノースアンナの戦いは双方決定打を出し切らずに終了した。グラントはノースアンナ北岸に戻った後、もっと思い切って南東へ移動し、当初の思惑通りの会戦に持ち込もうと考えた。しかし、それは南北戦争の中でも最も凄惨な結果を生むことになった。