ウエストポイント ― 2010/01/03 22:14
シンガーになると決めてそのことだけを考えるようになる前、わたしはウエストポイントへ行きたいと思っていた。ベッドの上で死ぬのではなく、英雄的に戦って死ぬ自分の姿をいつも想像していた。大部隊を率いる将軍になりたくて、どうすればそのすばらしい世界へ行けるのかと考えた。ウエストポイントに入学する方法を尋ねると、父はショックを受けた顔で、わたしの姓には「デ」や「フォン」がついていないこと、ウエストポイントには縁故と適切な身元保証がないと入れないことを教えてくれた。これからは、そういうものがどうすれば手に入るのかをふたりで考えていこうというのが、父が授けてくれた助言だった。
(ボブ・ディラン自伝 第2章 「失われた土地」より)
ウエストポイントと言えば、ニューヨーク州のその地名より、アメリカ陸軍士官学校を指し示す言葉として知られている。
ディランが子供のころのこの挿話は、どこかトンチンカンな味わいがあるが、ウエストポイントに入学するには、貴族的な家系の助けが必要だというのは、多少の真実を含んでいる。特に南北戦争前などは、この傾向が強い。多くのウエストポイントに入る士官候補生たちには身内に社会的地位の高い人がおり、そのコネを必要としていた。
身分の高いもの(つまり貴族)がその地位にある者の義務(Noblesse Oblige)として、軍隊の指揮官になるという考え方は、ヨーロッパから発して未だに受け継がれている。ジョージア州ニューナンの裕福な大農園主の家に生まれたテンチ家の兄弟(ベンモント・テンチの曾祖父とその弟たち)も、この考え方のもと騎兵として志願したのだろう。
ともあれ、いよいよ東部戦線はゲティスバーグへ向かうという段階いなって、私は登場人物の多さに困ってしまった。そこで、各将官を整理するために、ウエストポイントの卒業年順に、彼らをならべてみることにした。
すると、当たり前のことだが名だたる指揮官たちが、ウエストポイントではそれぞれ同級生だったり、年の近い先輩後輩だったしたことがよく分かる。士官候補生のころ、彼らは互いに敵味方に分かれることなど、想像したのだろうか。それを思うと、ゲティスバーグ参加組以外も、リストに入れなければと思うようになった。
1837年卒業
南軍
ジュバル・アーリー:チャンセラーズビルでは、フレデイックスバーグの守備。ゲティスバーグでは、ユーエルの配下。
(ルイス・アーミステッド:アーリーの頭を皿で殴ったため、ウエストポイントは中退。ゲティバーグでは、「ピケットの突撃」で戦死する)
1840年卒業
南軍
リチャード・ユーエル:ゲティウバーグ初日、彼のもう一押しの有無が大きなポイントになる。
1842年卒業
南軍
ジェイムズ・ロングストリート:リーの片腕。ゲティスバーグでは議論の的。
D. H. ヒル:ゲティスバーグの時は、南方予備隊。
ラファイエット・マクローズ:ゲティスバーグではロングストリートの配下。これまた議論の的。
北軍
(ウィリアム・ローズクランズ:西部戦線のため、ゲティスバーグは不参加。ただし、ジェイムズ・テンチが戦士したウエスト・バージニア戦役の指揮官だった人物。)
(ジョン・ポープ:ゲティスバーグは不参加。マクレランの前任だったが、第二次マナッサスで大敗)
1843年卒業
北軍
(ユリシーズ・グラント:西部戦線なので、無論ゲティスバーグは不参加。ただし、最重要人物)
1844年卒業
北軍
アルフレッド・プレザントン:騎兵指揮官。スチュアートに対してライバル心あり。
1846年卒業
南軍
ジョージ・ピケット:ゲティスバーグにおける象徴的な存在
(トーマス・(ストーンウォール)ジャクソン:無論、故人のためゲティスバーグは不参加)
北軍
(ジョージ・マクラレン:前前任のポトマック軍司令官。ゲティスバーグの時には解任されている)
1847年卒業
南軍
A. P. ヒル:ジャクソンの後を継いだが、ゲティスバーグでは体調不良のためか、精彩を欠く。
1853年卒業
南軍
ジョン・ベル・フッド:ロングストリートの配下だったが、窮屈を強いられ、不満を残す。
北軍
(フィリップ・シェリダン:西部戦線のためゲティスバーグは不参加)
1854年卒業
南軍
ジェブ・スチュアート:ご存じ、花咲ける騎兵隊長。
私の眼にとまったのは、やはりスチュアートの飛びぬけた若さ。彼がいかにリーに(いや、ほかの上官にもだろう)愛された、優秀な騎兵指揮官だったのかがよく分かる。
まだまだリストアップしきれていないが、とにかくウエストポイントでともに学んだ彼らは、それぞれの軍勢いを率いて、ゲティスバーグに向かうことになる。早々に到着したもの、遅刻したもの、積極果敢に仕掛けたもの、守りに入った者、それらが一点に集中して圧力が掛かり、一気に噴出した ― ゲティスバーグはそんな印象がある。歴史的な意義をゲティスバーグにのみ集中させるのは無理だが、そういうエネルギーの発火点としてのゲティスバーグは、いかにも魅力的だ。
(ボブ・ディラン自伝 第2章 「失われた土地」より)
ウエストポイントと言えば、ニューヨーク州のその地名より、アメリカ陸軍士官学校を指し示す言葉として知られている。
ディランが子供のころのこの挿話は、どこかトンチンカンな味わいがあるが、ウエストポイントに入学するには、貴族的な家系の助けが必要だというのは、多少の真実を含んでいる。特に南北戦争前などは、この傾向が強い。多くのウエストポイントに入る士官候補生たちには身内に社会的地位の高い人がおり、そのコネを必要としていた。
身分の高いもの(つまり貴族)がその地位にある者の義務(Noblesse Oblige)として、軍隊の指揮官になるという考え方は、ヨーロッパから発して未だに受け継がれている。ジョージア州ニューナンの裕福な大農園主の家に生まれたテンチ家の兄弟(ベンモント・テンチの曾祖父とその弟たち)も、この考え方のもと騎兵として志願したのだろう。
ともあれ、いよいよ東部戦線はゲティスバーグへ向かうという段階いなって、私は登場人物の多さに困ってしまった。そこで、各将官を整理するために、ウエストポイントの卒業年順に、彼らをならべてみることにした。
すると、当たり前のことだが名だたる指揮官たちが、ウエストポイントではそれぞれ同級生だったり、年の近い先輩後輩だったしたことがよく分かる。士官候補生のころ、彼らは互いに敵味方に分かれることなど、想像したのだろうか。それを思うと、ゲティスバーグ参加組以外も、リストに入れなければと思うようになった。
1837年卒業
南軍
ジュバル・アーリー:チャンセラーズビルでは、フレデイックスバーグの守備。ゲティスバーグでは、ユーエルの配下。
(ルイス・アーミステッド:アーリーの頭を皿で殴ったため、ウエストポイントは中退。ゲティバーグでは、「ピケットの突撃」で戦死する)
1840年卒業
南軍
リチャード・ユーエル:ゲティウバーグ初日、彼のもう一押しの有無が大きなポイントになる。
1842年卒業
南軍
ジェイムズ・ロングストリート:リーの片腕。ゲティスバーグでは議論の的。
D. H. ヒル:ゲティスバーグの時は、南方予備隊。
ラファイエット・マクローズ:ゲティスバーグではロングストリートの配下。これまた議論の的。
北軍
(ウィリアム・ローズクランズ:西部戦線のため、ゲティスバーグは不参加。ただし、ジェイムズ・テンチが戦士したウエスト・バージニア戦役の指揮官だった人物。)
(ジョン・ポープ:ゲティスバーグは不参加。マクレランの前任だったが、第二次マナッサスで大敗)
1843年卒業
北軍
(ユリシーズ・グラント:西部戦線なので、無論ゲティスバーグは不参加。ただし、最重要人物)
1844年卒業
北軍
アルフレッド・プレザントン:騎兵指揮官。スチュアートに対してライバル心あり。
1846年卒業
南軍
ジョージ・ピケット:ゲティスバーグにおける象徴的な存在
(トーマス・(ストーンウォール)ジャクソン:無論、故人のためゲティスバーグは不参加)
北軍
(ジョージ・マクラレン:前前任のポトマック軍司令官。ゲティスバーグの時には解任されている)
1847年卒業
南軍
A. P. ヒル:ジャクソンの後を継いだが、ゲティスバーグでは体調不良のためか、精彩を欠く。
1853年卒業
南軍
ジョン・ベル・フッド:ロングストリートの配下だったが、窮屈を強いられ、不満を残す。
北軍
(フィリップ・シェリダン:西部戦線のためゲティスバーグは不参加)
1854年卒業
南軍
ジェブ・スチュアート:ご存じ、花咲ける騎兵隊長。
私の眼にとまったのは、やはりスチュアートの飛びぬけた若さ。彼がいかにリーに(いや、ほかの上官にもだろう)愛された、優秀な騎兵指揮官だったのかがよく分かる。
まだまだリストアップしきれていないが、とにかくウエストポイントでともに学んだ彼らは、それぞれの軍勢いを率いて、ゲティスバーグに向かうことになる。早々に到着したもの、遅刻したもの、積極果敢に仕掛けたもの、守りに入った者、それらが一点に集中して圧力が掛かり、一気に噴出した ― ゲティスバーグはそんな印象がある。歴史的な意義をゲティスバーグにのみ集中させるのは無理だが、そういうエネルギーの発火点としてのゲティスバーグは、いかにも魅力的だ。
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