CSS ストーンウォール2009/12/04 23:57

 [ The Live Anthology] デラックス・ボックスが届かない。
 日本国内のCDショップや、通販サイトからの購入は、端から混乱するだろうと見ていたから別に良い。だから複数の入手経路を確保し、到着を待っているのだが、一番当てにしていた経路からさえも届かない。
 あまりジリジリしすぎて発狂しそうなので、気を紛らす必要がある。だから、もはや音楽とは何の関係もない記事を書く。

 南北戦争となると、圧倒的に陸戦の話題になるが、以前デイヴィッド・ファラガットのエピソードを紹介したように、一応海軍も活動していた。
 南部連合の海軍は圧倒的に設備不足であったため、これを補うために当時最新鋭の装備を持った軍艦を、フランスの造船会社に発注した。1863年起工。造船中の船名は「スフィンクス」。南軍はこれCSS Stonewall と命名した。CSSとは、Confederate States Shipの略。Stonewallは、言うまでもなくストーンウォール・ジャクソンから来ている。
 前項で述べたとおり、ジャクソンは1863年5月に亡くなったのだが、それからほぼ時を置かずして、すでに伝説的だった将軍の名を軍艦名としたのだ。
 しかし、南北戦争の情勢は変化しつつあった。ストーンウォール建造中の1863年半ばから、北軍が優位に戦況をすすめるようになり、フランスに対して、ストーンウォールの引き渡しについて差し止めを申し出るにいたった。そこでストーンウォールはいったんデンマークに売却され、それから南部連合国が改めて購入するという手はずになった。
 ストーンウォールは1864年進水。その威力は北軍に恐怖を与えるのに十分であったが、彼女がアメリカに到着するころには戦争そのものが終わり、結局「アメリカ合衆国」が所有することになった。(司馬遼太郎の小説「燃えよ剣」には、「北軍の注文で建造された」とあるが、これは誤りだろう。)

 内戦が終わると、アメリカはストーンウォールを売りに出した。世界でも最新鋭の艦船である。誰が買うのかと思ったら、意外にもとんでもなく遠方からオファーが来た。日本である。徳川幕府が購入した。
 ちょうど、幕末の動乱期である。薩長よりも余程早く海軍に関しては近代的な装備しつつあった幕府だが、ストーンウォールがゆるゆると日本にやってきた1868年には、旧幕府軍と、新政府軍との内乱に突入していた。
 アメリカ人にしてみれば、数年前の自分たちを見る思いだったかもしれない。ともあれ、アメリカはストーンウォールの幕府への引き渡しを見合わせ、日本がどちらの政府に落ち着くかを見極めた。翌1869年、明治政府が新たな政府と認められ、晴れてストーンウォールは引き渡された。
 ここで彼女は改名するのだが、その名前が何やら凄い。甲鉄艦 ― 木造の船体に金属の鉄板を打ち付けたその重厚な構造に由来するのだろう。「ストーンウォール」を訳して「甲鉄艦」とされたかのような誤解もあるようだが、もちろん違う。

 明治政府は成立したものの、旧幕府軍の一部は北へと移動しながら抵抗を続けていた。その最後が、榎本武揚率いる箱館政権である。これは旧幕府の海軍が母体になっていたため、かなりの海軍装備を持っていたが、1869年には旗艦の「開陽」を海難で失っていた。一方、明治政府には最新鋭の甲鉄艦。箱館は戦力的にも圧倒的不利にあった。
 その甲鉄艦が、箱館政権討伐のために北上し、宮城県宮古湾に停泊した。
 そこで箱館側が発案したのが、大胆にも「奇襲で甲鉄艦を強奪してしまおう」という作戦である。自軍の船を相手に接舷させて兵士を送り込み、船ごと分捕ろうという、カリブの海賊ばりのとんでもない話なのだが、19世紀後半にもなって、これを本気でやった。1869年5月6日、宮古湾海戦である。
 箱館側も「開陽」ほどではないものの、そこそこの船「回天」などがあったが、どうもこの作戦はヤケクソにか思えない。ともあれ、フランス人顧問のアドバイスもあり、箱館政権の海軍奉行(大臣にあたる)荒井郁之助と、「回天」艦長・甲賀源吾は、この「甲鉄艦強奪作戦」を実行に移した。

 箱館側の兵士の多くは無論海軍だが、一部陸軍も参加しており、「回天」には、陸軍奉行の土方歳三が乗船、兵士としては陸軍所属の新選組や彰義隊などが加わった。
 作戦決行の朝、政府軍の艦船のほとんどは奇襲など想像だにしておらず、回天は簡単に甲鉄に接近した。しかし、回天は小回りが利かず、接舷どころか、ほぼ頭から突っ込んでしまった。このため回天から甲鉄へ一気に兵士がなだれ込むことができなかった。要するにマゴマゴしているうちに、甲鉄の方の戦闘態勢が整ってしまい、箱館側は一斉射撃を食らうことになった。
 さらに、宮古湾に停泊していた別の新政府軍艦の中では、薩摩の春日がいち早く応戦を開始。短時間で回天は作戦の失敗を悟ることになった。ちなみに、この時の春日には23歳の東郷平八郎(後の連合艦隊司令長官)が乗船していた。
 回天は甲鉄の奪取を諦め、宮古湾を離れ、箱館に戻った。実のところ、トンデモない作戦の割に、回天はよくやった方で、艦長・甲賀の姿は語り草になった。もっとも、彼は回天を箱館まで運ぶことができなかった。戦闘の最中、舵を取りながら複数の銃弾を受けて、死亡したのだ。帰路は海軍奉行の荒井自ら舵を取ったというのだから、その壮絶さが想像される。

 その後、甲鉄艦は箱館戦争に加わり、その終結を見ることになった。1871年には「東(あずま)艦」と名をあらためたが、その後は大きな戦跡を残すことなく1888年に除籍となった。

 南部連合軍の伝説的な将軍の名を与えられ、南北戦争を戦うはずだったストーンウォール。彼女は、はるか極東の島国の小さな湾で、よもやサムライの接舷奪取作戦にさらされようとは、思いもしなかっただろう。しかも、新選組なんてものまで乗り込んでくるのだから、いささかチャンバラ講談じみている。
 
 ところで、回天に乗船した土方歳三は、宮古湾海戦の戦闘の最中は、何をしていたのだろう。彼は陸軍奉行であって、まさか新選組の一員として加わったわけでもあるまい。
 小説、ドラマ的には抜刀して(甲鉄にはガドリング砲が装備されていたらしいのだが…)乗り込みそうだが、事実やいかに。
 しかるべき所で調べれば分かるのだろうが、今はやっぱりTP&HBで頭がいっぱいなので、調べないでいる。

コメント

_ Scottie ― 2009/12/05 14:10

ぶちさんこんばんは。
デラックス盤無事入手いたしました!
ベストバイ実店舗では125ドル弱の値段がついていました。
厚さは5,6センチですが、レコードが入ってるだけあって
おざぶとん大です。まさに座るのにちょうどいいサイズ。
早くお届けしたいです。一刻も早く帰りたい(笑)
借りてるPCがメモリカードなどを読み取れないので
画像をお届けできなくて残念。

_ dema ― 2009/12/06 22:25

ストーンウォールジャクソンが明治政府軍で活躍・・・これってすごく皮肉。立場がまったく逆だから。
ちなみに第二次大戦の戦車の名前にもジャクソンは使われました。南北戦争の将軍の名前が使われたのですね。速度の一番速かった軽戦車の名前は「スチュアート」やっぱりという感じ。

_ NI ぶち ― 2009/12/06 22:45

>Scottieさん
おお、宮古湾に詳しいのかとビビりましたよ!(笑)
やっぱりお座布団サイズですか!れ、レコード入ってるんだったね!しまった、こいつの再生手段がない!きゃー、どうしよう?助けてマイク先生!

>demaさん
「シャーマン」って戦車に、南部出身のアメリカ兵が乗るのを拒否したって話は、本当でしょうかね?
それにしても、南北戦争と戊辰戦争って時期的にすごく近いですね。しかも、その性格も似ている。ところが、死傷者数は、南北戦争が60万人以上、戊辰戦争が2万人以下…規模もさることながら、戦争そのものの方法が近代戦か、それ以前かで、世界が違うんですね…

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