遥かなり西部戦線2009/04/20 23:13

 3月25日の記事で紹介した、内田義雄氏の著書「戦争指揮官リンカーン」には、こうある。

 とにかくあの広大なアメリカ大陸における戦争である。大陸の広さを想像できないと、一体どんな戦争だったのかがなかなかわからない。西部では、いくら歩いても人にも会わないし、人家も見えない広大な原野や森林が広がっている。戦闘は点で行われるだけに過ぎず、点と点ががなかなか線でつながらないのである。

 まさにその通りで、リーが活躍する東部戦線に比べて、西部戦線は掴みづらい。しかも、テンチ家の兄弟の活躍の場がその西部なのだから困る。
 2009年11月25日の記事では、ブラッグ率いる南軍が、交通網を駆使して大回りし、1862年7月末までにチャタヌーガに集結したところまで進んだ。一方、ビュエル率いる北軍は、チャタヌーガのやや南西に位置するディケーターあたりに陣取り、ようす見に徹していた。

 やがて南軍はチャタヌーガから北進を始めた。テネシー州の州都ナッシュビルが陥落したことにより、その北に位置するケンタッキー州も北軍の手に落ちつつあるあった。これを取り戻すための作戦を、南軍は始動したのである。このため、この作戦は「ケンタッキー作戦」と呼ばれる。
 南軍の動きを知った北軍は、敵に向かって猛進するのかと思えば、さにあらず。なぜか南軍に対して平衡に北上し、まずナッシュビルに入った。どうやら、広大な西部戦線においては、東部戦線のスチュアートのような偵察行動もままならず、慎重になりがちのようだ。…むろん、これは指揮官の性格にもよるのだが。
 9月中旬、南軍はマンフォードビル(地図赤い印)に入り、ナッシュビルからルイビルに至る鉄道網を手中に入れた。ブラッグはさらに北進して、ルイビルを落とすべきだった。この町にはオハイオ川が流れており、交通の要衝に間違いないのだ。しかし、ブラッグはマンフォードビルで守りに入り、結局ビュエルの北軍は鉄道を使わずにルイビルに無事到着。しばらく、両軍の約100kmを隔てたにらみ合いになった。



 10月初旬、南軍はそろりとマンフォードビルから北進。その動きを見て、北軍もルイビルから南下して、とうとう10月8日ペリービル(地図緑の印)で激突した。

 さんざんじらした割には、双方にとって実りの少ない戦闘だった。結果としては南軍が、1ヶ月半前に居たチャタヌーガまで退却したので、ケンタッキー作戦は失敗し、南軍が負けたことになっている。
 しかし、死傷者という意味での損害は、北軍の方がひどかった(北軍4200, 南軍3400)。
 南軍のブラッグは大胆な兵力移動と、時間をかけた作戦を展開した割に、ほとんど成果を得ることができず、一方ビュエルも戦況を7月の状態に戻しただけ。…と、両将軍とも能力不足を露呈した。
 その結果の人事は、対照的だ。ビュエルはローズクランツ(ジェイムズ・テンチが戦死した、ヴァージニア作戦における北軍の将の一人)に取って代わられた。一方、南部連合大統領デイヴィスのお気に入りだったブラッグは、西部戦線指揮官の地位にあり続けた。

コメント

コメントをどうぞ

※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。

※投稿には管理者が設定した質問に答える必要があります。

名前:
メールアドレス:
URL:
次の質問に答えてください:
このブログの制作者名最初のアルファベット半角大文字2文字は?

コメント:

トラックバック