テンチ家の人びと(その2)2008/08/04 23:30

 アメリカに、アル・フランクリンさんというダイビングの先生が居る。彼は自らの先祖の事を詳細に調べ上げ、サイトにアップした。ここに記すのは主に、このフランクリンさんのサイト(音が出る)からの情報だ。
 実は、フランクリンさんの母方の曽祖母ジャネットが、我らがベンモント・テンチIIIの曽祖父ジョン・ウォルターテンチ少佐の妹なのだ。遠すぎて殆ど他人だが、とにかく親戚ということになる。

 フランクリンさんの調べによると、ジャネットとテンチ少佐の父親ジョン・ヘンリーテンチJr.は、南北戦争前は奴隷を400人も所有していた、かなり裕福な人物だった。今でも、一族の墓はジョージア州にThe Tench Family Cemeteryとして残っている。
 フランクリンさんは、曽祖母の実家テンチ家について調べをすすめ、2004年にとうとうテンチ判事(ベンモントのパパ)に行き着いた。彼はゲインズヴィルのテンチ家(つまりベンモントの実家)を訪問し、判事からジョン・ウォルター・テンチ少佐(つまり、フランクリンさんの曽祖母のお兄さん)の話を聞いている。

 この時の様子は、こちらのページ(音が出る)にまとめられている。これがベンモント・ファンには必見の内容(?)となっている。

 南北戦争(1860-1865)が起こったとき、学生をしていたジョン・W・テンチは21歳。大学を中退し、南軍の兵士として出征した。家が裕福だったからだろう、彼は騎兵になっている。やがてジョージア第一騎兵連隊の少佐となった。
 戦争が終わった時、26歳だったテンチ少佐は、1900年までににフロリダ州ゲインズヴィルに移住した。この時、「息子・ベンモント」と一緒に「ジョージア州からの移住者」に名を連ねている。ベンジャミンとモンモランシーをくっつけた名前は、この代に現われる。

 テンチ少佐はなぜ裕福だった家の土地を離れて、ゲインズヴィルに移り住んだのだろうか。
 戦争が終わった時、まだ若かったテンチ少佐は、素早く新しい時代の到来を実感し、自分もそれに適応すべく行動したのかもしれない。「風と共に去りぬ」に登場する、先祖伝来の土地を守る事に命を懸けるスカーレットとは、対照的に ―。
 これは、飽くまでも私の想像。

 フランクリンさんがゲインズヴィルのテンチ家を訪問したのは、2004年のクリスマス。
 リビングには、クリスマスの飾りつけのほどこされたテンチ少佐の肖像が飾られていた。その写真もフランクリンさんのサイトには載っているのだが ―。
 私は思わず、その肖像画を見て笑ってしまった。曽孫の誰かさんによく似ている。
 イギリスの探偵小説などに、「いにしえの肖像に似ているから、お前が子孫で犯人だ!」…などという話がよくあるが、私は「そんなバカな」と思っていた。その考えを改めねばならない。遺伝の法則、恐るべし。

 フランクリンさんは少佐が所有していたヴァイオリンを見せてもらっている。フランクリンさんのページの写真でベンモントの妹ダービーが掲げているのがそれだ。
 少佐は腕の良いヴァイオリン弾きで、戦場にもこれを持参した。しかし娘を8歳で失ったのを機に、演奏をやめてしまう。ベンモントのもう一人の妹レイチェル(フランクリンさんは会えなかった)が、現在このヴァイオリンを弾いている。レイチェルは、幼くして亡くなった大叔母をしのんで数年前に演奏を始めたものが、いまや「北フロリダではかなりのフィドラー」だそうだ。

 さて。ここでダービーがヴァイオリンを掲げている写真に注目。
 背後にあるピアノと、さらにその後ろに見える煉瓦作りの柱に見覚えがある。


 そう、マッドクラッチがレコーディングをした時のテンチ家リビングの写真と同じだ。すなわちフランクリンさんは、あのマッドクラッチにとって記念すべきレコーディングが行われたリビングに通されたのだ。
 そこで、再度RDADを見直す。あのレコーディングの日のテンチ家のリビングに ― 






 ジョン・W・テンチ少佐の肖像。
 マッドクラッチのむっさいアンチャンたちは、テンチ少佐の肖像の身守る中でレコーディングしていたのだ。

 フランクリンさんは、自分の遠い遠い親戚が偉大なるTP&HBのキーボード・プレイヤーであることには、あまり頓着していないように見える。私には面白いレポートだったので、それをフランクリンさんに伝えたいのだが、英語が壁になって、いまだに実現していない。
 極東に住むロック・ファンが、自分のサイトを見てトム・ペティのDVDを必死にチェックしていると知ったら、フランクリンさんはどう思うだろうか。

(おわり)